ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルってどんな人?生涯や性格・死因は?

出典:[amazon]Handel Edition (65CD)

今回は、日本において「音楽の母」と呼ばれている「ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル」についてまとめたいと思います。ちなみに余談ですが、「音楽の母」というのは「音楽の父」と呼ばれている「ヨハン・セバスティアン・バッハ」と対等の存在にするために日本人が考えた呼び名のため他外国では呼ばれていません。

まず、はじめにゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685年~1759年)(以下ヘンデル)は「バッハ」と同じく、バロック音楽を築き上げた作曲家の1人です。実はヘンデルの家は音楽とは無縁の環境でしたが、幼いころに音楽の才能を発揮し音楽の道を歩むことを決めました。生まれはドイツですが、イタリアに留学し、イギリスに住み移るなどヨーロッパを回っていました。では、次からはもっと細かくヘンデルの生涯について掘り下げたいと思います。

生涯

ヘンデルは神聖ローマ帝国(現ドイツ)ハレにて生まれました。父は外科医と床屋を兼ねているところで仕事をしていたため厳しい家庭で育ちました。幼いころに音楽の才能をヘンデルは開花させていましたがなんせ厳しいお父さんだったため、「法律家にさせる」と言い音楽の道に進むことを強く反対したそうです。

ヘンデルの生まれた「ハレ」という場所はヨハン・ゲオルク1世の子ザクセン=ヴァイセンフェルス公爵アウグストに支配されていましたが、その公爵がヘンデルの演奏をとても気に入ったためヘンデルは父の猛反対を押し切ってでも音楽の勉強を続けることが出来ました。そして、8歳の時に聖マリア教会のオルガニストであった師匠にオルガン、チェロ、ヴァイオリンについて学びましたが師匠をしのぐほどになったのです。

しかし、父が思っていた「ヘンデルを法律家にさせる」という気持ちは捨てきれずヘンデルは17歳の時に父の望み通り大学で法律について学びましたがその傍らでオルガニストを務めていたのです。

その後、どうしても音楽の夢を捨てきれなかったヘンデルは様々なところに出向きオルガンやオペラを勉強し本格的に音楽の道に進んだのです。この当時、音楽の最先端であったイタリアにヘンデルが21歳の時に留学しました。25歳までの4年間で様々な都市を回りオペラ制作を行いました。このオペラの制作は貴族の心を掴みバロックを代表する作曲家になることが出来ました。

その後、ドイツに帰国しハノーヴァーの宮廷楽長に就任しイギリスに出張に訪れた際に、当時音楽が盛んだったイギリスに心を打たれそのままイギリスに定住することになりました。そしてオペラ団体である「王立音楽アカデミー」が設立され音楽監督に就任しました。

ヘンデルはオペラの次は「オラトリオ」というキリスト教の聖書の内容が題材となっている音楽劇を作るようになりました。音楽劇と言っても表情豊かに演出するよりは物語を朗読するような歌で衣装や道具などは使用しません。様々なオラトリオを発表し大成功を収めていた最中、52歳の時に音楽監督を務めていた「王立音楽アカデミー」が倒産してしまいました。

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また、同じ年にヘンデルは脳卒中で倒れてしまいます。しかし、ヘンデルはその後もオラトリオを制作し続け成功を成し遂げてきましたが66歳で白内障の手術を受けます。翌年67歳で3度目の白内障の手術を受けましたがとうとう失明してしまいました。そして、1759年、74歳という長い人生の幕を閉じました。

性格は?

では、次はヘンデルの性格についてまとめたいと思います。

作曲家というのは様々な方々がいますが、割と出身地で音楽を作り続けることが多いと思います。同じくバロック時代に活躍したバッハも活動は出身地であったドイツでほとんど行っていましたし古典派音楽であるウォルフガング・アマデウス・モーツァルトも様々な場所で演奏活動や作曲活動を行いましたがオーストリアで最後は定住しています。

それに比べてヘンデルは生まれたドイツから離れて最終的にはイギリスに定住しています。これは、常に最先端の音楽を求め続けた結果だと思います。音楽とは無縁の家庭で育ちましたが音楽を求め続ける気持ちは誰にも負けないほどあったことが分かりますね。

また、ヘンデルの発言、手紙等はほとんど残っていないため確信はありませんが作品から読み取ることが出来ることは、物怖じない性格でかっとなりやすいが根には持たない性格だったのではないかと言われています。法律を勉強するために大学には進学しましたが結果は音楽の道を進むことにしました。

イタリアに留学を決めたことも行動力があると見えますね。イタリアに留学中20歳も年上の作曲家のヴァイオリンを奪って演奏したことがあるそうです。このような行動を見ると怖いもの知らずで思い立ったら行動に移す性格だったと考えられますね。

また、ヘンデルが19歳の時に作曲家マッテゾンと大喧嘩を起こし大騒ぎになったそうです。マッテゾン作のオペラ「クレオパトラ」の上演中に口論が始まりどんどんエスカレートして最終的にマッテゾンは刃物でヘンデルに襲い掛かったそうです。こんな大きな出来事を起こしましたが2人はこの後仲直りし親友にまでいったそうです。こんな大口論にまで発展したのにけろっと気持ちを変えられるヘンデルは割と根に持たず引きずらない性格であることが分かりますね。

死因について

最後にヘンデルの死因についてです。正確なところは判明していませんがヘンデルは白内障の手術を受けた際に「白内障を治す医者」と騙されてしまい術後体調が思わしくなくそのまま帰らぬ人になってしまったのではないかと言われています。確かに、白内障の手術を受けたのに失明してしまったので「やぶ医者」だったのかもしれないというのは考えられますね。

まとめ

今回はヘンデルについてまとめさせていただきました。ヘンデルは常に音楽の最先端を求め新しいことを取り入れて音楽活動を行ってきました。バッハやモーツァルトは生まれた家系が音楽一家でしたがヘンデルは固い家庭で生まれ育ち親の反対を押し切ってまでバロック音楽の代表作曲家にまで登り詰めたヘンデルは音楽の才能を持っていたと言えますね。

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