出典:[amazon]The Choral Music of Kodaly
コダーイ・ゾルターンという作曲家をご存知ですか?コダーイ・ゾルターンは19世紀末から20世紀中頃まで活躍したハンガリーが誇る世界的作曲家です。ハンガリーの作曲家といえばバルトークが有名ですが、コダーイ・ゾルターンはそのバルトークとともに民俗音楽や民謡を研究し、「ハーリ・ヤーノシュ」や「ガランタ舞曲」といったハンガリーの民族性を基にした優れた作品を残しました。今回は、音楽家・教育者・哲学者として活躍したコダーイ・ゾルターンの生涯について紹介します。
コダーイ・ゾルターンの生涯について
コダーイ・ゾルターン(以下コダーイ)の生涯について紹介します。その偉大なる功績から、絶大な尊敬を集めた人物だったようです。
子供の頃から天才的才能を発揮
コダーイは1882年にハンガリーのケチケメートで生まれました。鉄道会社の事務員をしていた父が熱心なアマチュア音楽家だったそうで、家では毎日のように室内楽が流れ、コダーイは音楽に溢れた環境で幼少期を過ごしました。幼いころからヴァイオリンや聖歌隊の合唱に加わり音楽に親しんだコダーイは、小学校を卒業後、ハンガリーでもっとも優れた大学であるエトヴェシュ大学に優秀な成績で入学しています。
音楽の才能と同様に語学の才能も発揮したコダーイは、大学ではハンガリー語とドイツ語を専攻。それと同時にリスト音楽院の作曲科に入学し、若くして秀才ぶりを発揮します。リスト音楽院ではハンス・ケスラーに作曲を学びましたが、ケスラーが保守的(伝統的)な志向性であったため、その影響によりコダーイの音楽的志向性も伝統的形式を重んじる作風になったと言われています。
ハンガリーの民謡研究を始める
大学を卒業後、ハンガリーの民謡に強い関心を抱いたコダーイは、地方を訪ねて民謡収集を開始します。コダーイはハンガリーにおける民謡研究の第一人者としても知られており、1906年には「ハンガリー民謡の詩節構造」という論文を発表し、学会でも大きな注目を集めました。また、民謡収集の際に作曲家バルトークに出会い、二人で民謡集を手がけるなど、生涯の盟友として交流を深めるようになります。バルトークもハンガリー民謡を取り入れた作曲家として知られていますが、バルトークが民謡に開眼したのは、コダーイの影響によるものでした。
やがて哲学と言語学で博士号を取得したコダーイはパリに渡り、シャルル=マリーヴィドールに師事し、作曲の研鑽を重ねます。パリに滞在中はドビュッシーの影響を強く受けたようで、後のコダーイの作風に大きな影響を与えました。
二度の戦争中のなかでも研究に没頭する
パリから帰国後の1907年、コダーイは25歳という若さで母校のリスト音楽院教授に就任します。1910年には19歳年上の妻エンマと結婚し、エンマが亡くなるまで人生をともにしています。エンマと結婚してから間もなくして第1次世界大戦が勃発しましたが、コダーイは戦時中も民謡集めに没頭します。
またこの時期は「チェロとピアノのためのソナタ」や「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」を作曲していますがそれほど成功はしなかったそうです。しかし1923年、ブダ・ペスト合併50周年を記念して作曲した「ハンガリー詩篇」が大成功を収め、コダーイの名は瞬く間にヨーロッパに広がることになります。第2次世界大戦中もコダーイはブダペストに残り民謡収集を続け、戦火が近づいた際には、修道院に待避しオルガン曲のミサ曲の編曲などをしていたそうです。
名誉ある晩年
1942年に教職を退いたコダーイは、音楽的・学術的な功績が認められ、1945年にハンガリー国民芸術会議議長に就任。以降も国際民族音楽評議会会長や国際音楽教育協会名誉会長などの世界的な役職に就き、民族音楽の理解や音楽教育の普及に尽力しました。
多くの名誉ある地位に就いたコダーイの晩年は、とても穏やかなものだったようです。亡くなる1960年代には毎年海外旅行に出かけ、演奏会や会議に出席し精力的に後進の育成に力を注ぎました。そして1967年3月6日、コダーイは84歳でこの世を去りました。現在は、ハンガリーが誇るもっとも偉大な作曲家として、ブダペストのファルカシュレート墓地で静かに眠っています。死因について調べてみましたが、詳しいことはわかりませんでした。
コダーイ・ゾルターンのエピソードについて
コダーイの人生を見てみると「真面目な」イメージがありますが、それは教育者としての自覚が強い人物だったからかもしれません。
音楽教育にも熱心に取り組む
コダーイは「コダーイ・システム(メソッド)」という音楽教育法の開発者としても知られています。これは厳密にはコダーイの理念などを周囲の人々が編纂したものですが、コダーイは子供の音楽教育に強い関心を持ち、教育法としてのシステム(メソッド)を発案しました。これは現在でも世界中で採用されており、教育熱心だったコダーイの姿勢が垣間見えます。
71歳で再婚?
1958年、長く連れ添った妻エンマが亡くなり、深い悲壮感に苛まれたコダーイ。よほど落胆したのか、コダーイは一切の活動を休止しています。その様子を心配した周囲の人々は、お茶会や食事をともにするなど、なんとかコダーイを励まそうとしました。
そんなある日、父親に連れられてやってきたシャロルタ・ペーチェイという女性と出会います。明るく快活だったシャロルタを見たコダーイはたちまち恋に落ち、1959年シャロルタと再婚します。この時シャロルタ19歳。コダーイとは52歳も離れた年の差婚でしたが、コダーイが亡くなるまで生活を共にし、シャロルタも再婚せずコダーイ夫人として今もハンガリーで生活しています。学者肌のイメージがあるコダーイですが、孫ほどの女性に恋する情熱的な一面が知れるエピソードです。
まとめ
今回はコダーイの生涯について紹介しました。コダーイの名前を初めて聞いた方も多いと思いますが、コダーイは作曲家としてだけでなく、教育者、研究者としても優れた業績を残した天才だったことがわかりますね。コダーイ作品の中では、特に「ハーリ・ヤーノシュ」が有名ですので、もしかしたら聴いたことがある方もいるかもしれません。まだコダーイの作品に触れたことがない方は、本記事を参考にコダーイの作品を聴いてみてはいかがでしょうか。
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