ヨハン・シュトラウス2世ってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]J.シュトラウスII世:歴史的演奏のアンソロジ-第1集

毎年元日に行われるウィーンフィルのニューイヤーコンサートでお馴染みのヨハン・シュトラウス2世。シュトラウス2世は「ワルツの父」と評された父と共に、クラシックにおけるワルツの発展に多大なる貢献をしました。またオペレッタの作者としても知られ、シュトラウス2世が作曲した「こうもり」は、現代でももっとも演奏機会の多いオペレッタ作品の一つです。今回は、ヨハン・シュトラウス2世の生涯をご紹介します。

ヨハン・シュトラウス2世の生涯


ヨハン・シュトラウス2世は(以下シュトラウス2世)、1825年、「ワルツの父」ヨハン・シュトラウス1世の子としてウィーンで生まれました。幼少のころから音楽に触れていたシュトラウス2世は、早くから音楽的才能を示し、6歳で作曲を始めたと言われています。また、わずか8歳で「弟子」がいたそうで、その授業料でヴァイオリンを購入したという逸話も残っています。一方、音楽家になることについて父のシュトラウス1世は終始反対だったそうで、シュトラウス2世が楽器に触ることさえ許しませんでした。

そんな環境のなか、シュトラウス2世は商学部へ進み簿記などの勉強をしますが、音楽への思いを諦めることができず、学校を退学し音楽の道に専念します。父のシュトラウス1世は音楽家の道に反対しましたが、母・アンナはシュトラウス2世を常に応援し、励ましていました。

その後、音楽の勉強を終えたシュトラウス2世は、自身のデビューの準備を始めます(1844年)。それを聞いたシュトラウス1世は激怒し、飲食店や楽団員に圧力をかけたり、新聞記者に中傷記事を書かせるなどあらゆる妨害をしたそうです。しかしそんな妨害にもめげず、シュトラウス2世はデビューを果たし、父と同じく「ヴァイオリンを弾きながら指揮をする」スタイルでコンサートは大成功を収めました。

1849年、父・シュトラウス1世がこの世を去ると父が運営していた「シュトラウス楽団」を引き継ぎ、シュトラウス2世の名声は一気に高まります。「シュトラウス楽団」の人気は凄まじく、多いときには200人以上の楽団員がおり、一晩で5回の演奏会を行ったそうです。
またこの時期のシュトラウス2世はあまりに多忙だったため、過労により危篤状態になったとも言われています。

そんな状況を改善するため、シュトラウス2世は弟のヨーゼフとエドヴァルドと協力して仕事をこなしましたが、1870年に母・アンナと弟のヨーゼフを相次いで亡くしたことで、失意のどん底に落ちてしまいます。身内の不幸が原因で作曲の意欲を失ったシュトラウス2世でしたが、周囲からの励ましによりなんとか回復し、1871年に宮廷舞踏会音楽監督の地位を弟に譲り、オペレッタの作曲に専念します。

その後、オペレッタ「こうもり」や「ジプシー男爵」など、数々のヒット作品を発表し、シュトラウス2世の名声はさらに高まることになりました。1872年には、アメリカ独立100周年を祝う式典に出席するためにボストンに渡り、アメリカでも大成功を収めます。このときの報酬は10万ドルという破格の報酬とされ、式典には10万人の観客が押し寄せたと伝えられています。

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ボストンをあとにしたシュトラウス2世はニューヨークに行き、大きな拍手をもって迎えられました。シュトラウス2世の代表作「美しき青きドナウ」の演奏の際には、2万人の演奏者に正しいテンポを伝えるために、100人の副指揮者が用意されたという伝説も残されています。

1894年にはシュトラウス2世の音楽家生活50周年を祝う式典がウィーンの各地で開かれ、当時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世により「世界3大有名人」に認定されるほどの人気となりました。自身の人気についてシュトラウス2世は「私はこれに見合うようなことはしていない。充分すぎないか?」という言葉を残しています。

父・シュトラウス1世の死後、多忙を極めながらも世界的名声を獲得したシュトラウス2世は、1899年6月、妻に看取られながら73歳という人生に幕を下ろしました。親交のあったグスタフ・マーラーから依頼されたバレエ曲「シンデレラ」は未完のままとなっています。

性格を物語るエピソードは?


大の鉄道嫌いだったシュトラウス2世。鉄道で移動しなくてはならないときは、窓のカーテンを閉め、怖さを紛らわすためにシャンパンを飲んでいたそうです。また、ロシアに招待されたときも船旅を嫌がり、妻を困らせたといわれています。

・「ワルツ王」と呼ばれ多くの名曲を残したシュトラウス2世ですが、自身はダンスが苦手で、決して踊ろうとはしなかったそうです。

・当時大変な人気者だったシュトラウス2世は、女性との交際も華やかでした。生涯で3度結婚し、最後に結婚したのは64歳のときでした。

死因について

その人生において多忙を極めたシュトラウス2世でしたが、晩年になっても若々しく見られ、周囲からは「永遠の若者」といわれていたそうです。しかし実際には多忙により疲労困憊で疲れ果てていました。1899年、劇場での指揮の途中で容態が悪くなり、それから寝込む日が多くなりました。シュトラウス自身も自分の体調のことを悟っていたようで、この年の6月3日、73歳でこの世を去りました。死因は肺炎でした。とても人気のあったシュトラウス2世の葬儀には、10万人の参列者が集まりました。

まとめ

いかがでしたか?今回はヨハン・シュトラウス2世の生涯についてご紹介しました。シュトラウス2世が作曲したワルツは、軽快で華やかなのが特徴です。あまりワルツを聞いたことがない方も多いと思いますが、今回の記事を機会にぜひワルツを聞いてみてください。お正月のニューイヤーコンサートをみたときに、きっと違った視点から楽しめると思いますよ。

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