パウル・ヒンデミットってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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パウル・ヒンデミットは、20世紀のクラシック音楽界に新たな旋風を巻き起こしたドイツの作曲家・音楽教育者です。20世紀の音楽といえば、アルノルト・シェーンベルクらにより提唱された、無調音楽や十二音技法が代表的ですが、ヒンデミットは新古典主義や新即物主義に傾倒し、新たな音楽を模索しました。
また、ヴィオラ奏者としても名声を獲得し、20世紀を代表するヴィオラ作品を生み出しています。では、作曲家・演奏家・教育者として活躍したヒンデミットとはどのような人物だったのでしょうか。今回は、彼のエピソードを交えつつ詳しく解説します。

パウル・ヒンデミットの生涯

同時期の多くの音楽家と同じく、ヒンデミットの人生も2度の戦争により翻弄されました。
とくにナチス・ドイツからの非難は、彼の音楽家人生にとって大きな事件にも発展しています。

生まれながらに芸術家

パウル・ヒンデミットは、1895年にドイツのハーナウに生まれました。
あまり聞き慣れない地名ですが、ハーナウは『グリム童話』で知られるグリム兄弟が生まれた由緒ある都市であり、19世紀のドイツ民主主義の拠点としても栄えた都市です。

5人兄妹のなかで育ったヒンデミットは、父の教育により幼い頃からヴァイオリンを学ぶ機会に恵まれました。兄妹も音楽を学んだようですが、ヒンデミットは特に優れた楽才を開花させたようです。

1908年、13歳でホッホ(ホーホ)音楽院に入学したヒンデミットは、アドルフ・レブナーに師事し、大きな影響を受けています。また、ホッホ音楽院の卒業生にはハンス・プフィッツナーや指揮者オットー・クレンペラーなどがおり、彼らとは音楽院修了後も少なからぬ関わりを持つことになります。

ヴァイオリン奏者としてキャリアを開始

音楽院修了後、ヴァイオリン奏者としてキャリアを開始したヒンデミット。
駆け出しの頃はお金に困ることもあったようで、カフェやダンスホール、映画館でアルバイトをしながら生計をたてていたと言います。

しかし1915年、20歳でフランクフルト歌劇場管弦楽団のコンサートマスターに抜擢されると、ヒンデミットのキャリアは急速に拡大し始めます。
第1次世界大戦により、一時期は音楽活動が停滞したものの、戦後はヴィオラ奏者として活動し、作曲も多く手がけるようになります。

そして1919年、自作品だけで構成された演奏会が大成功を収めると、ヒンデミットの作曲家・演奏家としての名声は徐々に高まり始め、1927年にはベルリン音楽大学の作曲家教授に招かれました。

しかしナチス・ドイツが台頭すると、ヒンデミットの作品は「退廃音楽」と見なされ、ドイツ本国での演奏が禁止に。ベルリンでの活動もできない状態に追い込まれてしまいます。

第2次世界大戦後から晩年

そのような状況から脱出するため、1940年、ヒンデミットはアメリカに亡命します。アメリカではイェール大学教授に就任し、作曲・演奏活動の他に『伝統的和声の集中講義』などの著書を著すなど、アメリカの音楽発展に貢献しました。

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その後アメリカでの市民権を得たヒンデミットは指揮者としての活動も始め、名実ともに20世紀を代表するドイツの作曲家として世界的地位を確立します。

1950年代から活動拠点をスイスに移すと、ヨーロッパ各国だけでなく、南アメリカなど世界中で演奏公演を重ね、1956年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とともに来日。
ヒンデミット自ら指揮台に立ち、当時の日本人聴衆を大いに湧かせました。

世界的名声を博したヒンデミットでしたが、1963年に自宅で高熱を出し、その年の12月28日にこの世を去りました。死因は出血性すい炎、あるいは胆のうガンとされています。

ヒンデミットにまつわるエピソードについて

ヒンデミットにはどのようなエピソードがあるのでしょうか。
ここでは、彼の性格を物語る出来事を紹介します。

ナチス・ドイツに対する強烈な皮肉

ヒンデミット作品の中に興味深い作品があります。
それは『朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された「さまよえるオランダ人」序曲』というなんとも奇妙な作品です。

『さまよえるオランダ人』とは、リヒャルト・ワーグナーを代表する楽劇ですが、ヒンデミットはこの作品に強烈な皮肉を込めました。

本作が作曲されたのは1925年。ナチス・ドイツが台頭し始めた時代です。
ヒトラーといえば、強烈なワーグナー信奉者。そのワーグナー作品をヒンデミットが「冗談音楽」としてパロディ化したのは、ナチス・ドイツに対する抗議の意味も含まれていたのかもしれません。

一歩間違えば命に関わる作品ですが、ヒンデミットの芸術家としての信念がうかがえます。

日本の音楽教育にも大きな影響を与える

ヒンデミットは1927年、ベルリン音楽大学の作曲科教授に就任します。
また同時に、ヨーゼフ・ヴォルフスタールとエマヌエル・フォイアーマンと共に三重演団を結成し好評を博しました。

とくにエマヌエル・フォイアーマンは「斉藤記念オーケストラ」の創始者である斎藤秀雄の師匠でもあり、日本の音楽教育に大きな影響を与えています。
ヒンデミットがいなければ、フォイアーマンと斎藤秀雄の出会いもなかったかもしれません。このことから、ヒンデミットは間接的ではあるものの、日本の音楽教育の発展に大いに貢献した人物でもあります。

今回のまとめ

今回はパウル・ヒンデミットの生涯やエピソードについて解説しました。
2度にわたる世界大戦を懸命に生き抜き、20世紀のクラシック音楽に新たな旋風を巻き起こしたヒンデミット。彼が残した作品は、現在も受け継がれ、多くの演奏家のレパートリーになっています。
現代音楽と聞くと身構えてしまう人が多いかもしれません。
しかし、古典主義の精神を受け継いだヒンデミットの音楽は、情緒豊かでありながら整然としていて、とても聞きやすい作品となっています。
この記事を機会に、ぜひヒンデミットの作品に触れてみて下さい。

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