ジュール・マスネってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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19世紀から20世紀初頭にかけて、大衆から絶大な人気を獲得したジュール・マスネ。彼が作曲したオペラ『マノン』や『ウェルテル』は現在でも頻繁に上演され、なかでもオペラ『タイス』の間奏曲である「タイスの瞑想曲」は、誰しも1度は聴いたことがあるほどの名曲です。
幼少期から卓越した音楽の才能を発揮し、生涯にわたりフランス音楽の第一線で活躍し続けたジュール・マスネとはどのような人物だったのでしょうか。
今回は、エピソードを交えながらジュール・マスネの生涯を解説します。

ジュール・マスネの生涯

神童として人生の早くから頭角をあらわしたマスネは、年齢を重ねるごとにその名声を揺るぎないものにしました。

11歳でパリ高等音楽院に入学

ジュール・マスネは1842年、フランスのポン=サロモンに12人兄弟の末っ子として生まれました。製鉄技師をしていた父は最初の結婚で8人の子供を設け、2度目の結婚でマスネが誕生します。一家はマスネが6歳のときにパリへ移住し、以降はパリでの生活が始まります。母からピアノの手ほどきを受けたマスネは、瞬く間にその才能を発揮し、わずか11歳でパリ高等音楽院への入学を許可されました。

音楽院では、ピアノをアドルフ・ローランに、オルガンをフランソワ・ブノワに師事し、さらにその才能を開花させます。和声や作曲の勉強も始めたマスネは、1863年に対位法の試験で音楽院1等賞、そして同年、カンタータ「ダヴィッド・リッツィオ」で作曲家の登竜門であるローマ賞1位を獲得。新進気鋭の作曲家として、注目を集め始めます。またこの時期にフランツ・リストと出会い、リストから大きなインスピレーションを受けたそうです。

人気オペラ作曲家として

ローマ賞受賞を皮切りに、スターへの階段を駆け上がったマスネ。1867年に上演した最初のオラトリオ『マグダラのマリア』は初演から大成功を収め、チャイコフスキーやグノーと並び称されるほどの賞賛を獲得します。その後、戦争に参加したため作曲活動は一時中断されたものの、帰還後は再び活動を再開。交響組曲『ポンペイア』やオラトリオ『マリー=マドレーヌ』、オペラ『ラホール王』などを発表し、作曲家としてのキャリアを着実に積み重ねました。

そして1876年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与されたマスネは、フランスを代表する作曲家として認知され、1878年にはパリ高等音楽院の教授に任命されます。
パリ高等音楽院で教鞭をとるかたわら、マスネの人気はさらに高まり、1884年に発表された『マノン』が空前の大ヒットを獲得。続いて発表した『ウェルテル』『タイス』『ドン・キホーテ』も大きな話題となり、オペラ作曲家として揺るぎない地位を獲得しました。

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弟子に愛された晩年

作曲家として大きな成功を収めたマスネ。そんな彼は、生涯にわたり熱心な音楽教師でもありました。温厚な人柄と生徒を思いやる教育方針により、マスネは多くの弟子たちから慕われ、後進の育成にも熱心に取り組んだといいます。
また、その作曲スタイルはピエトロ・マスカーニやジャコモ・プッチーニクロード・ドビュッシーといった同時代の作曲家たちにも影響を与え、フランス音楽の発展に多大な影響をもたらしました。1867年からおよそ45年にわたり、作曲家・音楽教師として意欲的に活動したマスネですが、1912年、ガンのためパリにて70歳でこの世を去りました。

ジュール・マスネの性格を物語るエピソード

ジュール・マスネのエピソードを2つ紹介します。天才にして辛口評論家として知られるサン=サーンスとは生涯分かり合えなかったそうです。

カミーユ・サン=サーンスとの確執

1876年、わずか36歳という若さでフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与されたマスネ。このことから、当時のマスネがどれほど人気作曲家であったのかがうかがえますね。その2年後の1878年にはパリ高等国立音楽院の教授に任命され、さらにアカデミーの最年少会員にも抜擢されました。

しかし、高等音楽院教授の職をめぐって、マスネとサン=サーンスとの間に軋轢が生まれたと言われています。というのも、高等音楽院の教授職の決定には「選挙制」がとられており、サン=サーンスもその地位を求め立候補していました。選挙の結果、新進気鋭のマスネが勝利を収めることに。選挙結果に憤慨したサン=サーンスは、マスネの丁寧な電報に皮肉にも捉えられる返事を送ったといわれています。

謙虚なマスネと辛辣なサン=サーンスとの性格の違いがよくわかるエピソードですが、この事件をきっかけに、2人の関係は冷え込んだままとなったそうです。

多くの弟子を育てる

マスネはその教育方針や人柄から、多くの弟子に恵まれました。彼は弟子に対して威圧的な指導をせず、才能を引き出すような教育方針を貫いていました。彼の弟子には、ブリュノー、シャルパンティエ、ショーソンなど優れた作曲家がいますが、中でも最後の弟子であるシャルル・ケクランには一目を置いていたそうです。
そんなケクランはマスネの人物像について「活発で、生き生きとした、活気に満ちた、しかも包括的な教え」と回想しています。
こんな人柄だったからこそ、多くの弟子たちから愛されていたのですね。

まとめ

ジュール・マスネの生涯を解説しました。マスネはオペラの作曲家として人気を博しただけでなく、同時代の作曲家や後世のフランス音楽に多大な影響を及ぼしました。そして彼が生み出した作品は、現在もなお私たちを楽しませてくれます。
「タイスの瞑想曲」はもちろんですが、改めて、マスネの美しい作品を聴いてみてはいかがでしょうか。これまでオペラを聴く機会が少なかった方も、きっと楽しめる作品に巡り会えると思いますよ!

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