出典:[amazon]The Best of Mussorgsky (Remastered)
モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーはロシア出身のロマン派の作曲家です。「ロシア5人組」の一人で、ロシアの文化や風土を尊重した作曲活動を行いました。無精ひげとワイルドな風貌が特徴的な肖像画を目にしたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか?本記事では、そのムソルグスキーの代表曲である「禿山の一夜」について解説していきます。
ムソルグスキーについて
まずは、「展覧会の絵」の作曲家であるムソルグスキーについて詳しくご紹介します。
ムソルグスキーの生涯
1839年3月21日に、プスコフ州というロシア西部の村に生まれました。 6歳の頃に母からピアノの手ほどきを受け、フランツ・リストの小品を弾くまでに上達したと言われています。 ピアノの才能があったのでしょうね。
地主階級に生まれた彼は当時の慣習に従い、武官になるべく10歳の頃にサンクトペテルブルグへ移住。士官候補生としてエリート校に入学し勉学に励みます。しかし、音楽に対する情熱は失わず、独学で作曲を始めるようになりました。 ちょうどこの頃に「ロシア5人組」のメンバーであるバラキレフやキュイ、ボロディンと知り合いました。
一時は武官の道を断ち、音楽に専念する決断をするムソルグスキーでしたが、農奴解放令のために地主だったムソルグスキー家は没落します。それを契機に稼がなくてはいけなくなった彼は、文官との2足のわらじで作曲活動を続けました。しかし一度エリートコースを外れたムソルグスキーの収入はあまり豊かではなかったそうです。 官吏を務めながら作曲する生活は十数年続きました。
1865年に母が死去すると、ムソルグスキーは徐々に酒浸りの生活を送ります。 友人の援助も受けながら作曲は続けるものの、ムソルグスキーの楽曲は当時あまりにも粗野で独創的過ぎたため、周囲から評価されず上演機会に恵まれないことが続きました。酒量も抑えられず、当時のムソルグスキーはアルコール依存症を患っていたと言われています。ムソルグスキーが41歳のとき、亡くなる1年前にはついに文官としての職も無くなってしまいました。
1881年初頭に4度の心臓発作に見舞われ、昏睡状態に陥ります。入院し療養に専念していましたが、残念ながら42歳の若さでこの世を去りました。
かの有名な肖像画はちょうどこの入院中に描かれたものでした。
人物像とエピソード
ムソルグスキーの有名な肖像画は、目がうつろでワイルドな髭と髪形が非常に印象的ですが、若かりし頃の評判はまた少し違うものだったようです。
エリート教育を受けるために入学した陸軍士官学校では、大変礼儀正しくピアノの腕前も素晴らしく、マナーや身のこなしもばっちり、成績優秀で絵にかいたような士官ぶりで人気者だったそうです。 さすが貴族出身のおぼっちゃまというところでしょうか。ちなみに飲酒の習慣はこの士官候補生の頃からあったそうです。
士官の道を断ち音楽に専念してみたものの、専業音楽家になってすぐに実家の経済難のため生活は困窮を極めます。その中で芸術へ希求していくうちに「リアリズム(現実主義)」の影響を受けるようになり、農民などのいわゆる社会の低層の人々の厳しい現実に共感を抱くようになります。
厳しい生活や現実に感心を寄せて作曲活動に昇華していたムソルグスキーですが、皮肉なことにその思想が自身の神経衰弱の追い風となってしまい、実生活には良い影響を与えませんでした。母に次いで、1873年 に親友である画家のヴィクトル・ハルトマンが亡くなると、次第に酒量が増加し生活に支障をきたすようになります。
なお、このヴィクトル・ハルトマンが、ムソルグスキーの代表曲である組曲「展覧会の絵」のモチーフになった画家です。
肉親や親友の死を経験し、その他の友人たちも結婚を機にムソルグスキーから距離を置くようになります。飲酒癖の関係で職場からも追放されますが、それを知った友人たちはムソルグスキーの音楽活動のために寄付を募りました。その他にも伴奏の仕事をくれるなど援助があったそうです。
晩年にアルコール依存症の治療のため入院生活を送るムソルグスキーでしたが、死因はなんと「ブランデーの大瓶」と言われています。飲み干してしまったのか空のブランデーの大瓶の横に倒れた状態で亡くなっていたそうです。なぜ入院中に酒が手元にあるのか不思議ですが、これは入院中の見舞いのときに友人が差し入れたと言われています。ムソルグスキーはその好意に素直に甘えてしまったのでしょう。
ムソルグスキーの葬儀は、晩年に肖像画を描いた画家のレーピンがその肖像画を売り払った代金で執り行われたそうです。 最後まで友人から支えられた生涯でした。
「禿山の一夜」について
ここからは「禿山の一夜」の特徴や楽曲の背景について解説していきます。
楽曲の背景
元々は「聖ヨハネ祭前夜の禿山」というタイトルで作曲されましたが、他の曲同様にムソルグスキーの存命中に演奏される機会に恵まれなかった不運な曲でもあります。彼の作曲手法はあまりに突飛で独特であったため、当時に評判を得ることは困難だったそうです。
楽曲を発表するも演奏機会に恵まれなかったムソルグスキーは、その後諦めることなく、ありとあらゆるオペラに本楽曲のフレーズをねじ込もうとします。しかしそのオペラもことごとく制作が中断し、「禿山の一夜」はお蔵入りのままムソルグスキーはこの世を旅立ちます。
ムソルグスキーの死後、同じく「ロシア5人組」の一人だったリムスキー=コルサコフが「彼の才能をなんとかして世に知らしめたい」と考えて、編曲を手がけます。オーケストレーションを全面的に見直し、原典版よりもかなり洗練された印象に編曲しました。ムソルグスキーの特徴の一つでもある粗野で荒々しい雰囲気から一皮むけてしまいましたが、結果としてこのリムスキー=コルサコフ版は原典版とは打って変わり大衆に受け入れられ、「禿山の一夜」が初めて世に広く普及していきます。
ムソルグスキーはロシアの国民性や自国の伝統を尊重した芸術表現を意識していました。「禿山の一夜」は、「聖ヨハネ祭前夜、禿山に地霊チェルノボーグが現れ手下の魔物や幽霊、精霊達と大騒ぎするが、夜明けとともに消え去っていく」とのロシアの民話を元に作られています。ヨーロッパでは夏至に伴う言い伝えや伝統的な祭りが多くあるそうです。「魔物たちの大騒ぎを音楽で表現する 」が本曲のテーマ。曲自体もかなり怪しげでおどろおどろしい雰囲気で、まさに夏の夜にぴったりです。
特徴や演奏形態について
ムソルグスキーは当初、「禿山の一夜」をピアノとオーケストラの編成で作曲しました。今日は様々なバージョンで編曲されており、吹奏楽版、ピアノソロ版など多種多様です。しかしながら、やはり耳にする機会が多いのは管弦楽の演奏です。
「地下から響く不気味な声。魔物たちとチェルノボーグの登場。チェルノボーグの賛美とミサ。魔物たちの宴。教会の鐘の音が鳴り魔物たちは去る。夜が明ける。」
「禿山の一夜」の冒頭にはこう書かれており、この曲の標題です。
地下から響く不気味な声を3連符に乗せて表現したり、魔物たちの大移動を厳かなファンファーレで表現したりするなど、実に表情豊かな作品です。終盤はフルートやクラリネットの美しいソロを用いて色彩を付け、まさにすがすがしい朝日と夜明けを演出しています。
「禿山の一夜」を鑑賞するときにはぜひ標題をイメージして、魑魅魍魎たちの宴の情景を思い浮かべてみてくださいね。
「禿山の一夜」が登場する作品
「禿山の一夜」はその独創的なメロディから、TVの不気味なシーンの効果音として頻繁に使われています。
有名な登場作品は、ディズニーが作成したアニメーション映画「ファンタジア」ではないでしょうか。おそらくこの映画で耳にしたことがある方も多いと思います。ファンタジアは他にも多くの有名なクラシック音楽が使われているため、クラシック音楽好きの間では有名ですよね。
なお、アニメーション映画「ファンタジア」ではストコフスキーの編曲のものが使われていますので、リムスキー=コルサコフ版や原典版と聞き比べるのもおもしろいでしょう。
他にはテレビドラマ「けものみち」の主題歌として使われたり、毎日新聞のCMに使われたり、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンドトラックにディスコアレンジにて登場したりしています。他にも冨田勲のシンセサイザーアレンジも有名です。
このように様々なジャンルの映像作品に登場しているのは、「禿山の一夜」の独創的かつ絶妙な不気味さが人々を惹きつけてやまないからではないでしょうか。皆さんもぜひ一度、夏至の夜の魔物たちのおどろおどろしい世界観を味わってみてくださいね。
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