アントニーン・レオポルト・ドヴォルザークってどんな人?その生涯や性格は?

出典:[amazon]ドヴォルザーク:交響曲第6番、序曲「わが家」

後期ロマン派を代表するチェコの作曲家、アントニーン・レオポルト・ドヴォルザークは、チェコ国民楽派を代表する作曲家としても知られています。当時のドヴォルザークは、自身の代表作である「スラヴ舞曲集」で著名な作曲家となりました。そんなドヴォルザークについて詳しく解説をしていきます。

ドヴォルザークの生涯

肉屋と宿屋をしていた家に生まれたドヴォルザークの身内には、ツィターという弦楽器の演奏で評判だった父親や、トランペットの演奏をしていた伯父がいました。結果的には音楽の道に進むことになりましたが、実家の仕事や経済的にはとても厳しい状況だったようです。

幼少期のドヴォルザーク

1841年に誕生したドヴォルザークは、6歳のころに通い始めた学校の校長先生からヴァイオリンの演奏を教わると、実家の宿屋や教会で演奏を行うようになります。

しかし、長男として生まれていたドヴォルザークに実家の仕事を継いでほしいと思っていた父親は、幼いドヴォルザークを、家を継ぐための修行に出してしまいます。ところが、行った先の学校の校長先生によって、ドヴォルザークはヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンなどの演奏や、和声学などの音楽に関する基礎について教わることになりました。

オルガン学校時代

15歳の年、ドヴォルザークは違う教師のもとドイツ語と音楽を学ぶことになりましたが、家庭の経済的な問題があったため、両親は実家の手伝いをさせようとします。それに反対した伯父は、負担を自身が負うということでドヴォルザークの両親を説得しました。

そして1857年にプラハのオルガン学校へ入学し、1859年にこの学校を卒業すると、ドヴォルザークは楽団の演奏者としてレストランなどで演奏を行っています。また、この在学中に友人となったカレル・ベンドルという人物とは卒業後も関係が続き、ドヴォルザークの作品の初演を行うなど良い友人だったようです。

演奏者と作曲家としての活動

オーケストラのヴィオラ奏者になったドヴォルザークは、1866年にオーケストラの指揮者として迎えられたスメタナから、直接指導を受けることになります。

また1870年にオペラの最初の作品が作曲されていますが、このころの作品からはワーグナーの影響を受けていることが感じられることで、ドヴォルザークはワグネリアンだったとされているようです。ちなみにワグネリアンとは、ワーグナーの音楽の熱狂的なファンのことを指しています。

作曲に専念

1871年、オーケストラを辞めて作曲に専念することにしたドヴォルザークは、「白山の後継者たち」という作品で知られるようになりました。その際の初演を務めたのが、在学中に友人となり関係が続いていたカレル・ベンドルです。

1874年、教会のオルガニストになったドヴォルザークは、ワーグナーの影響で作曲した後しばらく放棄していた「王様と炭焼き」を、改めて違う音楽として作曲すると、ナンバーオペラとして完成させました。しかし、これは当時のワーグナーが嫌った形式として知られています。

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さらに有名になるドヴォルザーク

「モラヴィア二重唱曲集」の出版後、依頼によって作曲された「スラヴ舞曲集」によって、さらにドヴォルザークは音楽家として知られるようになりました。このころには、より民族を意識した作品が多く作曲されています。

そしてドヴォルザークの作品は、ドレスデンやハンブルクなどでも上演されるようになり、1884年にイギリスを訪れた際には、自身の指揮で演奏を行いました。この後もドヴォルザークは、イギリスには何度も訪れています。

また、1890年に完成した交響曲第8番が「ロンドン」や「イギリス」と呼ばれていましたが、それはイギリスをイメージして作曲したからではありません。実は、ドヴォルザークの作品の出版に関してずっと付き合いのあった出版社との関係が悪化してしまい、交響曲第8番を持ち込んだ先がロンドンの出版社になってしまったため、そのように呼ばれるようになったそうです。

その後アメリカに移り様々な活躍をしますが、1895年には帰国することになります。そしてオペラの作曲に力を入れ始めると、その作曲は晩年まで続きました。

エピソードから見える性格

ドヴォルザークは意外なものが好きだったようで、少しだけドヴォルザークの性格も窺えるエピソードが残っています。

鉄道ファンだった!?

ドヴォルザークは、朝の散歩や作曲の息抜きの際に、駅まで行って汽車を見ていたようです。また汽車を見ていただけでなく、時刻表や車体の番号などのチェックも行っていたとされています。

音やリズムを聴いて楽しんでいたようですが、そのおかげか、音の異変で汽車の不具合に気づき、発見を早めたことで事故を防いだというような逸話もあります。

またドヴォルザークの機嫌が悪くなると、妻はこの鉄道好きを利用して解消させていました。しかし普段は穏やかなドヴォルザークですが、鉄道に関することにはとても熱くなってしまうことも多かったようです。

鳩好き?

温厚な性格だったと言われているドヴォルザークは、鳩の愛好家としても知られています。なんと、実際に別荘では鳩を飼育していたようです。

結婚や交友関係

作曲家として成功を収めたドヴォルザークの、成功のきっかけとなった人物との出会いや結婚に関するエピソードなどを紹介します。

結婚

1873年の「白山の後継者たち」初演の際に、過去に個人的に教師として音楽を教えていた女性と再会し、その年のうちに結婚しました。ちなみに、ドヴォルザークはこの女性のお姉さんに恋をしていたこともあったようです。

しかし1877年になると、次女と長男が立て続けに亡くなってしまいます。そして、このことがあり作曲された教会音楽「スターバト・マーテル」は、宗教作品の代表作として知られています。

ブラームスとの出会い

1874年から、ドヴォルザークは奨学金の審査のために作品を提出していました。毎年審査を受け続け、結果5年間奨学金を受け取っていたようです。そして、その審査のために作品を見ていたブラームスの目に留まったドヴォルザークの作品が、出版社に紹介されることとなりました。このことがきっかけで、ドヴォルザークは自身の作品を出版していくことになります。その翌年、ドヴォルザークからブラームスに会いに行ったところから、個人的な関係が始まりました。

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