トマス・ビーチャムってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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トマス・ビーチャムという人物をご存じですか?トマス・ビーチャムは19世紀後期から20世紀半ばにかけて活躍した、イギリス出身の指揮者です。正式な音楽教育を受けなかったものの、父から受け継いだ有り余るほどの財力でオーケストラを創設し、20世紀初頭のクラシック音楽界に大きな功績を残しています。

また、イギリスBBCにより「英国初の国際的指揮者」と称されたビーチャムは、同時代に活躍した作曲家の作品を積極的に取り上げ、イギリス音楽の普及にも尽力しました。そんな、魅力あふれるトマス・ビーチャムとはどのような人物なのでしょうか。

トマス・ビーチャムの生涯について

トマス・ビーチャムの生涯について解説します。指揮者のクーセヴィツキーも裕福な指揮者として知られていますが、ビーチャムはそれを遥かにしのぐ家系に生まれました。

裕福な家に生まれる

トマス・ビーチャムは1879年4月29日、ビーチャム製薬(現グラクソ・スミスクライン)の息子として、イギリス・ランカシャー州セントヘレンズに生まれました(グラクソ・スミスクライン社は現在も世界有数の製薬会社です)。
大会社の御曹司だったビーチャムは、幼い頃からピアノを学び、自宅を訪ねる有名音楽家からさまざまな楽器や作曲を学んだと言います。

また、子供の頃からコンサートやオペラ上演にも通い、一流の音楽に触れて育ちます。オックスフォード大学進学したため(中退)、音楽の専門的教育は受けませんでしたが、その恵まれた環境を活かし、独学で音楽を学びました。

そしてアマチュア・オーケストラの指揮者を務めていたビーチャムは、ハンス・リヒターの代役でカレ管弦楽団を指揮し、プロの指揮者としてデビューを飾ります。

オペラ・ハウスを私費で借り切る

プロ指揮者としてデビューしたビーチャムはその財力を活かし、1910年にロイヤル・オペラ・ハウスを私費で貸し切りオペラ上演を開始します。このオペラ上演では、R・シュトラウスの作品を積極的に取り上げ、作品の普及に尽力しています。

しかし必ずしもヒット作ばかりではなかったようで、損失の補填を父に願い出ることも少なくなかったそうです。

1910年代初頭にはロシアのディアギレフの「バレエ・リュス」のために指揮台に立ち、指揮法をピエール・モントゥーに仰ぎます。このとき、ストラヴィンスキーの難曲『ペトルーシュカ』をリハーサルなしで成功させたことで、ビーチャムは大きな賞賛を浴びました。

多数のオーケストラで手腕をふるう

第1次世界大戦中もビーチャムの活動は衰えず、ハレ管弦楽団、ロンドン交響楽団、ロイヤル・フィルハーモニー協会などに資金提供しながら指揮活動を続けます。
また、経営難に苦しむオーケストラのために、ビーチャムはしばしば無報酬で演奏活動を続け、イギリスの音楽の存続のために奔走しました。

1915年にはビーチャム・オペラ・カンパニーを結成し、イギリスでの全国公演を成功させ、イギリス国民を勇気づけます。そして翌1916年、長年の栄誉によりイギリス王室から爵位を授与され、同年末の父の死去に伴い「男爵」を継承しました。

その後もビーチャムは莫大な資金を惜しげもなく音楽活動に投じ、1932年にはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を設立。ビーチャム自ら音楽監督を務め、イギリス音楽の発展に寄与しています。

第2次世界大戦から晩年まで

第2次世界大戦中が始まり、活躍の舞台をアメリカとオーストラリアに移したビーチャムは、メトロポリタン歌劇場の常連となりアメリカでも人気を博しました。
1950年代のビーチャムは、BBCより「英国初の国際的指揮者」と称され、新たに結成したロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団と共に世界的な演奏活動に繰り出します。

作曲家フレデリック・ディーリアスの最初のオペラ『イルメリン』の世界初演を行ったのもビーチャムでした。

1951年から1960年にかけて意欲的に指揮活動を続けたビーチャムですが、1961年3月8日、ロンドンの自宅で冠状動脈血栓症のため81歳でこの世を去りました。
彼の遺骨は、ディーリアス夫妻の共同墓地の近くにある、聖ピーター教会に埋葬されています。

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トマス・ビーチャムにまつわるエピソードについて


ビーチャムのエピソードについて紹介します。音楽教育を受けなかったビーチャムですが、天性の才能により、思いもかけず指揮者デビューしたようです。

その場のノリで指揮者に?

ビーチャムの父がセントヘレンズ市長に復帰し、それを祝うコンサートが開かれたときのこと。ハレ管弦楽団を招き、指揮はドイツの有名指揮者ハンス・リヒターが担当する予定でした。しかしコンサートの数日前にリヒターが病気であることが告げられます。一同は、指揮者不在に困りはてますが、そこで手をあげたのが息子のビーチャムでした。

当時20歳のビーチャムは1度しか指揮したことがなく、オーケストラメンバーも当然困惑したそうです。しかし最終的に考えを改め、ビーチャムが指揮台に上がることに。

そしてコンサートは大成功を収め、ここからビーチャムの指揮者人生が始まります。
もしハンス・リヒターが予定通りに指揮していたら、現在のイギリス音楽界は大きく異なるものになっていたかもしれません。

リヒャルト・シュトラウスとの関係

ビーチャムの交友関係は幅広く、ディーリアスシベリウスブルーノ・ワルターなど多くの芸術家と深い交流を持ちました。
なかでもR・シュトラウスとの友情は生涯にわたり続き、第2次世界大戦後に行方をくらましたR・シュトラウスを血眼になって探し出し、コンサートの指揮台に復帰させたのもビーチャムでした。

無事にコンサートに復帰したR・シュトラウス。しかしこれにより彼は行く先々で「あなたが、『美しき青きドナウ』の作者シュトラウスですか?」と質問ぜめに合うきっかけとなったそうです(実際の作者はヨハン・シュトラウス2世)。

ユーモアあふれる人柄

ある女性ファンから「息子に楽器を習わせたいが、どんな楽器が良いですか?」と尋ねられたビーチャム。当然女性は、ピアノやヴァイオリンといった答えを期待していたことでしょう。

しかしこの質問に対してビーチャムは「バグパイプは習い終わったときも、習い始めたときとまったく同じ音がでるから、バグパイプを習いなさい」とユーモアたっぷりに答えたそうです。予想外の回答に女性は驚いたそうですが、ビーチャムの機知が垣間見られるエピソードですね

トマス・ビーチャムの華麗なる指揮ぶり

ビーチャムととくに親しかった作曲家の1人にフレデリック・ディーリアスがあげられます。ディーリアスの『アパラチア』を聴いたビーチャムは、その才能に驚嘆し、生涯にわたりディーリアスを支援し続けました。彼の音楽家としての成功は、ビーチャムによるものと言っても過言ではないでしょう。

また、ビーチャムはディーリアスの作品をしばしば改訂し、「ビーチャム改訂版」の形で作品を完成させたことでも有名です。ここでは、ビーチャム指揮によるディーリアスの代表作『春、初めてのカッコウを聴いて』を紹介します。美しくも優しいメロディーをご堪能ください。

まとめ

今回は「英国初の国際的指揮者」と呼ばれ、「女王陛下のオーケストラ」を育てたトマス・ビーチャムについて解説しました。金銭的に恵まれた彼はその財力を存分に活かし、多くの優れた芸術家・作曲家を援助しています。ユーモアやウィットに富んだキャラクターにより、誰からも愛されたビーチャム。彼が残したオーケストラや録音は、現代のクラシックファンにも強いインパクトを与え続けています。
録音の音質は良くありませんが、この記事を読んで興味を持たれた方は、ぜひビーチャムの演奏を聴いてみてください。

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