[amazon]Copland Conducts Copland: Fanfare / Appalachian
20世紀アメリカ音楽において、最高の作曲家と称されるアーロン・コープランド(以下コープランド)。コープランドはアメリカン・クラシカル音楽の先駆者であり、その音楽はアメリカの風景、精神、そしてアイデンティティを捉えたものとして広く称賛されています。コープランドはインディアンといった民族音楽からインスピレーションを受け、独自の音楽言語を築き上げました。
代表作には『アパラチアの春』『ビリー・ザ・キッド』『ファンファーレ・フォー・ザ・コモン・マン』などがあり、これらの作品はアメリカ文化の一部となり、現在も広く親しまれています。またコープランドは音楽だけでなく、教育や文化の面でも大きな影響を与え、アメリカ音楽の黄金時代を築き上げました。
そこで今回は、アメリカ音楽史へ偉大な貢献を果たした彼の生涯をエピソードを交えつつ解説します。
アーロン・コープランドの生涯
90歳という大往生を遂げたコープランドの生涯は、まさに20世紀のアメリカ音楽における精神的支柱と言っても過言ではないかもしれません。
20世紀の幕開けとともに生まれる
コープランドは、1900年11月、リトアニア出身のユダヤ人の両親の元に、5人姉弟の末っ子として生まれました。父は音楽に関心を示さなかったそうですが、母が音楽教室を開いていたため、幼少期から音楽に触れながら育ちます。
なかでも姉ローリーンは早くからコープランドの才能を見抜き、ピアノを習わせ、音楽的キャリアを支援しました。
そんなコープランドは作曲にも関心を示し、わずか8歳で母のために曲を書くなど、幼少期から類い稀な音楽の才能を示します。そして15歳になったコープランドは、本格的に作曲家になることを決意。20代前半でパリへ渡り、当時最先端の音楽に衝撃を受けたのでした。
さらなる音楽を求め、パリへ留学
父は大学進学を望んでいたものの、母の助けにより無事にパリ留学を果たしたコープランド。パリでは、レオポルド・ウォルフゾーンやルービン・ゴールドマーク(ジョージ・ガーシュウィンの先生)に音楽の手ほどきを受け、1921年からは高名な音楽教師ナディア・ブーランジェに師事しています。コープランドがパリへ訪れた1920年代は、ドビュッシーやラヴェルなどの印象派音楽が隆盛し、クラシック音楽の新時代の幕開けの時期でもありました。
1924年にニューヨークに帰国するまでの4年間の間に、コープランドはさまざまなヨーロッパの最先端の音楽を吸収し、アメリカ人ならではの音楽の制作に取り組みます。
アメリカへ帰国後、コープランドの噂を耳にした指揮者クーセヴィツキーは、早速コープランドの初期作品『劇場のための音楽』を初演。これにより、コープランドの名声は一気に広まることとなりました。
これ以降、コープランドの作曲家生活は全盛期を迎え、バレエ音楽『ビリー・ザ・キッド』や『エル・サロン・メヒコ』、『庶民のためのファンファーレ』といった代表作を次々と発表します。
また、アメリカン・スピリットを体現したコープランドは、『我等の街』『廿日鼠(ハツカネズミ)と人間』といった映画音楽も担当し、名実共に20世紀のアメリカ音楽を代表する作曲家として世界的名声を獲得しました。
教育者としての晩年
長年にわたり作曲家として第一線で活躍したコープランドですが、1960年代からは指揮活動に専念し始めます。これにはいくつかの説があるようですが、もっとも有力な理由として「作曲のアイディアが浮かばなくなった」というのが定説だそうです。実際にコープランド本人も「(作曲活動について)まるで誰かが蛇口をしめたかのようだった」と語っており、作曲家としての衰えが、指揮活動に繋がったと考えられています。
その後1980年代になり、健康状態が悪化したコープランドは、1990年12月2日にアルツハイマー病および呼吸不全のため、ニューヨーク州ノース・タリータウンでこの世を去りました。90歳という大往生でした。
コープランドの死後、残された多額の遺産はアーロン・コープランド作曲家基金として寄付されています。
アーロン・コープランドのエピソードは?
コープランドのエピソードを簡単に2つ紹介します。
とくに世界的指揮者・作曲家のレナード・バーンスタインとは、公私におよび深い絆で結ばれていました。
愛国的精神の持ち主
1936年に行われた大統領選挙において、アメリカ共産党を支持したコープランド。これにより彼はFBIからマークされ、ハリウッド・スタジオのブラックリストにも名前が載ってしまいます。また、アイゼンハワー大統領の就任コンサートではコープランドの作品が除外されるなど、政治的な疑いの目で世間の注目を集めました。
しかしこれは根拠のない非難であり、FBIによる調査は1955年に中断され、1975年にようやく疑惑が集結します。それどころか、現在では愛国心溢れる作曲家として認知されており、『庶民のためのファンファーレ』はアメリカ精神を鼓舞する代表曲として、現在も演奏され続けています。
レナード・バーンスタインに影響を与える
多くの作曲家・演奏家に影響を与えたコープランドですが、なかでも親しかったのがレナード・バーンスタインでした。バーンスタインはコープランドの作曲スタイルに大きな影響を受けており、コープランドがいなければバーンスタインの作品は生まれなかったといっても過言ではないでしょう
また、バーンスタインはコープランド作品の最高の指揮者と見なされており、このことからも2人の友情の深さがうかがえます。
まとめ
20世紀アメリカ音楽の顔とも言える、アーロン・コープランドの生涯を解説しました。
コープランドはクラシック音楽の伝統を継承しながらも、アメリカ独自の音楽を生み出し、ステレオ録音や映画音楽、バレエ音楽まで幅広いジャンルで偉大な功績を残しました。映画がお好きな方なら、まずは『赤い仔馬』や『女相続人』などを観て、コープランドの作品に触れてみるのも面白いかもしれません。
>>アーロン・コープランドの作品の特徴及び評価。おすすめ代表作5選
コメントを残す