フリッツ・クライスラーってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全集(クライスラー)(1935-1936)

「愛の喜び」や「愛の悲しみ」などの代表作で知られるフリッツ・クライスラー。曲名は知らなくても、一度は作品を聴いたことがある人も多いと思います。クライスラーは19世紀後半から20世紀中頃まで活躍した世界的ヴァイオリニスト・作曲家であり、演奏家としても作曲家としても絶大な人気を獲得しました。また、第1次世界大戦時には、クライスラー自らも従軍し、祖国のために戦地へ赴いたことでも知られています。そんな激動の時代を生き抜いた天才フリッツ・クライスラーとはどのような人物だったのでしょうか。今回はフリッツ・クライスラーの生涯について解説します。

フリッツ・クライスラーの生涯について

フリッツ・クライスラー(以下クライスラー)の生涯について解説します。3歳でヴァイオリンを始めたクライスラーはまさに「神童」でした。

早熟の天才ヴァイオリニスト

クライスラーは1875年、オーストリアの首都ウィーンに生まれました。町の開業医だったクライスラーの父は、アマチュア演奏家として活動するほどの音楽愛好家であり、その影響でクライスラーも3歳からヴァイオリンを習い始めます。一説によると、文字より先に楽譜を読むことを覚えたそうです。

幼少期から驚異的な才能を発揮したクライスラーは、ヴァイオリンを始めてからたった4年
でウィーン高等音楽院に特別入学。その後10歳で卒業するというまさに「神童」でした(通常は14歳で入学許可が下りるそうです)。音楽院ではブルックナーに作曲を学び、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世にヴァイオリンを教授されています。

この間、在学中に訪れたサラサーテやルビンシュタインなどの演奏に魅了され、このことについてクライスラーは後年、「練習以上にはるかに多くのことを学んだ」と述べています。
ウィーン高等音楽院を修了後はパリ高等音楽院に留学。こちらも12歳という若さにもかかわらず、首席で卒業するという快挙を成し遂げました。

その後1888年、フランツ・リストの弟子でピアニストのローゼンタールの誘いで渡米。クライスラーはボストンの地で初のリサイタルを開きます。リサイタル中に弦が2度切れるアクシデントに遭いながらも、無事にメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏し終え、クライスラーは演奏家デビューを果たします。

戦争で負傷する

オーストリアに帰国後、父の意向により、クライスラーは一般教養を修養するため高等学校に入学することに。卒業後は、医学への興味から医学部へ進学しましたが、「解剖に馴染めない」という理由で医者の道を諦めます。そして1895年からオーストリア帝国陸軍に入隊し、陸軍中尉の試験に合格。軍人として生きることを決意しますが、ちょうどその頃、父親が財政難に苦しんでいたため、クライスラーは一転、音楽の道で父を支える決断をします。

2ヶ月の特訓を経て、ウィーン・フィルハーモニーの第2コンサートマスター入団試験を受験したクライスラーでしたが、「初見が不得手」「音楽的に粗野である」という理由で不合格となってしまいます。一刻も早く生計を立てたかったクライスラーは、徐々にソリストとしての活動を開始し、1899年、アルトゥール・ニキシュ指揮のベルリンフィルハーモニーと共演。またもメンデルゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」で大成功を収め、演奏家としての名声が高まりました。1902年にはアメリカから帰国途中の船内で知り合ったハリエット・リースと結婚し、以降ハリエットはクライスラーの音楽活動を全面的にバクアップします。

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しかし1914年、第1次世界大戦が勃発すると、陸軍中尉としてクライスラーも招集され、東部戦線に参加するも、戦地で重傷を負い名誉の除隊となります(この時の様子は、クライスラーの著書『塹壕の四週間』に書いてありますので、興味のある方は読んでみてください)。終戦後は療養しながら演奏活動を続けたクライスラーでしたが、この頃のアメリカとオーストリアは敵対関係にあったため、思うように活動が軌道に乗らない不運な時期を過ごします。

その後、クライスラーは1924年から34年までの10年間をベルリンで過ごしますが、ナチス政権の登場でまたもピンチに追い込まれることに。クライスラーはナチス政権からドイツへの残留を要求されましたが、これを断固拒否し(クライスラーはユダヤ人だったので)、1938年、ドイツがオーストリアを併合したタイミングでフランス・パリに移住し、難を逃れます。

祖国を離れ晩年はアメリカで生活

1939年、第2次世界大戦の足音がパリに迫ると、クライスラーはアメリカ行きを決意し、1943年にアメリカ永住権を取得。以降、アメリカで演奏活動を続けます。アメリカ行きの2年前に頭蓋骨骨折という大事故に遭い一時は「再起不能」と囁かれましたが、奇跡的に復活し、ラジオ放送やリサイタルで聴衆を沸かせます。しかし、事故の後遺症(視力障害や短期的な記憶障害)に悩まされることが多くなったクライスラーは、1950年に引退を宣言。引退後は、戦争で苦しめられた人々を救うため、様々な慈善事業に携わり、1962年、心臓疾患によってその波乱の生涯に幕を下ろしました。享年86歳。

性格を物語るエピソードは?

温厚な人柄でも人気を博したクライスラーにはどのようなエピソードがあるのでしょうか。
調べてみると、若者思いの心優しい人物だったようです。

若手を支援、慈善活動にも熱心だった

ヴァイオリニスト・作曲家として大きな名声を獲得し、世界中の人気者となったクライスラーは、若手音楽家への援助を惜しまなかったと言われています。金銭的に困窮する若い音楽家に自分の楽器を分け与え、経済的援助もしていたそうです。

また、楽器や美術品、本などのコレクターでもあったクライスラーですが、晩年はこれらの大部分を売却し寄付にあてました。しかし、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の自筆楽譜とフランスの作曲家ショーソン自筆の「詩曲」だけは手放さなかったと言われています。いずれにしても、心の優しい人物だったことがわかるエピソードです。この2つは後にアメリカ国会図書館に寄贈されています。

ヤッシャ・ハイフェッツを手放しで賞賛

天才クライスラーが手放しで賞賛した演奏家の一人に、ヤッシャ・ハイフェッツがいました。ハイフェッツは「ハイフェッツの後にハイフェッツなし」と称されるほどのヴァイオリニストですが、そのハイフェッツに対してクライスラーは「私の究極の到達点をスタートラインにして、無限に記録を伸ばした天才」、「私も君も、これ(自分のヴァイオリン)を叩き割ってしまったほうがよさそうだ」とその演奏を絶賛したそうです。この話から、クライスラーの音楽に対する愛情と若い才能への愛情が伝わります。

まとめ

フリッツ・クライスラーの生涯やエピソードについて紹介しました。クライスラーの写真を見てわかるように、どの写真も作品同様、快活で優しそうな人柄が滲み出ています。戦争で重傷を負ったり、交通事故に巻き込まれるなど波乱の人生でしたが、その分、世界中の人々に優しい音楽を送り届けたクライスラー。代表曲「3つのウィーンの古い舞曲」以外にも多くの名作を残していますので、まだ聴いたことがない方は、この記事を機会にぜひクライスラーの作品を聴いてみてください。

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