レオシュ・ヤナーチェクってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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レオシュ・ヤナーチェク(以下ヤナーチェク)という作曲家をご存じですか?ヤナーチェクは、組曲『モルダウ』などの作品で知られる、ベドルジハ・スメタナと同じくチェコ音楽における重要人物です。生前はそれほど評価が芳しくなかったものの、1950年以降オペラや管弦楽曲、室内楽といったさまざまな作品が見直され、現在では演奏機会の多い作曲家として人々を楽しませています。

では、チェコを代表する作曲家ヤナーチェクはどのような人生を歩んだのでしょうか。
今回はエピソードを交えつつ解説します。

レオシュ・ヤナーチェクの生涯

ドヴォルザークやスメタナと同様、チェコを代表する作曲家ヤナーチェクの生涯を解説します。

幼少期から才能を発揮

レオシュ・ヤナーチェクは1854年、現在のチェコ東部にある街モラヴィアに14兄弟中10番目の子どもとして生まれました。両親はともに教師で、音楽にも理解がある人物だったそうです。早くから息子の才能を見抜いた父ルイージは、ヤナーチェクを修道院付属の学校に入学させ、この頃から本格的な音楽教育を施します。

その後、王立師範学校の教員養成過程に進学したヤナーチェクは、音楽以外に歴史や地理、心理学を収め、いずれも優れた成績を残したと言われています。また同時にオルガンも学び始めたヤナーチェクは、プラハ滞在中にアントニン・ドボルザークで出会い、これ以降親交を深めることとなりました。

最終的にドヴォルザークは新世界(アメリカ)に向かいますが、祖国への思いは二人とも生涯変わらなかったようです。

民族音楽への目覚め

やがて本格的に音楽を学びたいと考えたヤナーチェクは、ドイツのライプツィヒ音楽院に入学。ベートーヴェンやシューベルトなどの古典派やロマン派の音楽に触れ、大きな影響を受けます。授業態度も真面目だったようで、当時のヤナーチェクの評価は「並外れた才能に恵まれた人物」と高い評価を得ています。

その後1882年、音楽の学びを終えたヤナーチェクはチェコ第2の都市ブルノにオルガン学校(現ヤナーチェク音楽院)を設立し、後進の育成にも携わり始めました。もちろん、作曲家としての活動もしていましたが、作品があまりにも「保守的である」ことから、当時の評価は芳しいものではなかったようです。

しかしこの頃からヤナーチェクは民俗音楽や民俗舞踏の収集や研究に関心を持ち、やがてその技法に魅せられるようになります。なかでもモラヴィアの民謡に没頭し、その影響は『ラシュスコ舞曲』などに強く反映されています。

20世紀に入るとオペラの作曲にも力を入れ、1916年に発表したオペラ『イェヌーファ』は、当時の言葉を借りれば「度肝を抜くような大成功」を収めたそうです。

晩年と死

オペラ『イェヌーファ』の成功を機に、世界的な作曲家として認知されたヤナーチェクは、その後も管弦楽曲『シンフォニエッタ』やオペラ『死の家より』を作曲するなど、晩年も精力的に活動を続けました。彼が設立したオルガン学校は、1919年に国立音楽院に再編成され、現在も多くの優れた音楽家たちを輩出する名門校として知られています。

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生涯を音楽に捧げたヤナーチェクですが、1928年、滞在先のオストラヴァの地で肺炎のためこの世を去りました。享年74歳。葬儀はブルノにて静かに行われました。

レオシュ・ヤナーチェクのエピソードは?

ヤナーチェクのエピソードを3つ紹介します。どうやらヤナーチェクは、ロシアの精神に心酔していたようです。

激情な性格

人生の早い段階で音楽の才能を発揮したヤナーチェクは、作曲活動のかたわら教育者としても活躍しました。肖像画などを見ると温和そうに思えますが、実はかなりの激情型の性格だったようです。

彼の指導を受けた学生によれば、「気性が激しく、怒りっぽい。そしてときに発作的に怒りを爆発させる」こともあったのだとか。このような話から推察すると、ヤナーチェクは「なんでも自分の思い通りにしたい性格」だったのかもしれませんね。

ロシア愛が強すぎる

ヤナーチェクはロシアの精神に心酔していたことでも知られています。彼が1918年に作曲した交響的交響詩『タラス・ブーリバ』はスラヴ民族の解放者であるロシアを讃えるものとして作曲されました。

また、オペラ作品にもその精神が反映されており、ヤナーチェクの最後のオペラ『死の家より』はロシアの文豪ドストエフスキーの『死の家の記録』がベースとなっています。

そのほか、同じくロシアの作家レフ・トルストイの代表作『アンナ・カレーニナ』を題材としたオペラの制作も計画していたようです。

残念ながらこちらは完成しませんでしたが、ヤナーチェクがロシアの精神に心酔していたことが垣間見られます。

結婚生活はうまくいかず

1881年、ヤナーチェクはズデンカという美しい女性と結婚しました。二人の間には娘のオルガが誕生し、幸せな日々を送っていましたが、妻ズデンカとヤナーチェクの母アマリアとの相性は最悪だったとのこと。

それが原因で妻と娘は2年間にわたりヤナーチェクの元を離れ、夫婦仲も次第に疎遠になったそうです。その後、仲を回復した二人に長男が生まれますが、早くに亡くなり、これがきっかけで結婚生活は破綻となりました。

晩年はオペラ作家としても活躍したヤナーチェクですが、私生活は順調とは言えなかったようです。

まとめ

ヨーロッパ各地で音楽を学び、民族音楽の要素に辿り着いたヤナーチェク。その作風は、現代のポップスにも通じるものがあると言われています。色彩豊かでバラエティー溢れるメロディーは、現在でも色褪せず聴く人の心を魅了し続けています。
これまでヤナーチェクの作品を聴いたことがない方も、この記事をきっかけに彼の世界を体験してみてはいかがでしょうか。

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