ピアニスト・スヴャトスラフ・リヒテルってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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アルトゥール・ルービンシュタインやウラディミール・ホロヴィッツとともに20世紀最高のピアニストと称されるスヴェトスラフ・リヒテル(以下リヒテル)。そのダイナミックな演奏と超人的な技術は、現在もなお多くのファンを魅了しています。
1970年には、大阪万国博覧会のため初来日し、それ以降日本でもなじみのピアニストとして親しまれるようになりました。

また、アメリカ人ピアニスト・ヴァン・クライバーンの才能をいち早く見抜いたのもリヒテルであり、その演奏に対して「生涯で聴いたなかでも、もっとも力強い演奏だった」と賞賛しています。そこで今回は、スヴャトスラフ・リヒテルの生涯を振り返ってみましょう。

スヴャトスラフ・リヒテルの生涯

リヒテルが生きた旧ソビエト時代は、当局による厳重な監視下にありました。そのため芸術家たちにとっては極めて厳しい時代であり、大ピアニスト・リヒテルでさえ第2次世界大戦中の西側諸国においては「幻のピアニスト」と呼ばれていました。

青年期のリヒテル

リヒテルは1915年、現在のウクライナ領ジトーミルに生まれました。父はドイツ出身のピアニストで、現地のルター派の教会では合唱団長やオルガン奏者を務めていたそうです。
そのような家庭に育ったリヒテルは3歳からピアノに親しみ、父親から音楽教育の手ほどきを受けます。父は音楽教育に熱心だったものの、リヒテルを音楽家にしようと思っていなかったようです。

その後、不幸なことにスパイ容疑をかけられた父が処刑されると、一家は亡命のためドイツへと渡ります。その間、独学でピアノを習得したリヒテルは、わずか15歳でオデッサ劇場の音楽コーチの職に就任し、オペラ作品の見聞を広めたと言います。

22歳でモスクワ音楽院に入学したリヒテル。音楽院ではハインリヒ・ノイハウスに師事するものの、すでにその腕前は完成の域に達していたようで、後年ノイハウスは「(当時のリヒテルには)何も教えることはなかった」と回想しています。ノイハウスの同門には、ピアニストのエミール・ギレリスがいましたが、リヒテルはギレリスからも一目を置かれる存在だったようです。

世界的ピアニストへ

その後、ソビエト国内におけるリヒテルの名声は徐々に高まりを見せ、30歳の時にはソビエト国内すべてのピアノコンクールで1位を獲得する快挙を達成します。
そして第2次世界大戦が終了すると、リヒテルの名は西側諸国に伝わり始め、1950年代からようやく世界的名声を獲得するに至ります。大ピアニストであっても、大変な苦労をしたようですね。

この頃に西側諸国でリリースされたムソルグスキーの『展覧会の絵』は異例のヒットとなり、1960年代になりようやくリヒテルは西側諸国での演奏が許可されます。

しかしここからがリヒテルの快進撃の始まりでした。1960年に敢行されたアメリカ・ツアー成功を皮切りに、世界各国で大絶賛を浴びたリヒテル。彼の名はたちまち20世紀を代表するヴィルトゥオーゾとして認知され、ホロヴィッツと並び称されるほどにまで成長します。

とりわけヘルベルト・フォン・カラヤンと録音したチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』は大好評を博し、現在もリヒテルの名盤の一つとして多くのファンに親しまれています。また、リヒテルが弾くシューベルトのピアノ・ソナタを耳にした鬼才グレン・グールドは、その演奏について「私は催眠術によるトランス状態としか例えようのない境地に連れ去られた」と賛辞を送ったと言います。

晩年

1940年代、一時指の故障によりピアノから離れたものの、リヒテルは生涯にわたり意欲的に演奏活動を続け、後進の育成にも務めました。
後年、リヒテルを慕って集まったメンバーは「リヒテル・ファミリー」と言われ、世界的ヴィオラ奏者ユーリ・バシュメトもその1人です。

長きにわたり世界的ピアニストとして活躍したリヒテルは、1997年8月1日、モスクワにて心臓発作により人生の幕を閉じました。享年82歳。亡くなる前日までピアノに向かい練習に励んでいたそうです。翌1998年5月、生涯を共にした妻ニーナ・ドルレアックもリヒテルの後を追うかのようにこの世を去りました。

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スヴャトスラフ・リヒテルのエピソードは?

大ピアニスト・リヒテルには数多くのエピソードが残されています。
彼の業績は、単なるピアニストにとどまらずクラシック音楽全体に大きな影響を与えました。

ヴァン・クライバーンを世界的ピアニストへ

東西冷戦時代、西側諸国と旧ソビエトは常に緊張状態にありました。
そのような時代に始まったのが、第1回チャイコフスキー国際ピアノコンクール。
旧ソビエトは、全世界に自国の科学力を示す意外にも、文化的優位性を示すことを計画していました。

そしてコンクールが行われた1958年。当時23歳の1人の若きアメリカ人がコンクールにエントリーします。コンクールが始まると、彼のダイナミックで繊細なタッチは他の出場者の誰よりも優れ、たちまち聴衆を魅了します。そのピアニストこそ、のちに祖国アメリカにおいて一大センセーションを巻き起こす、ヴァン・クライバーンでした。

クライバーンの演奏に感銘を受けたリヒテルは、彼の演奏を満点の25点とし、他の出場者には0点を付けました。たとえ敵国であったとしても、芸術に対して公平な視点を持っていたリヒテルの性格をよく表しているエピソードです。

同時代の作曲家とも積極的に交流

リヒテルが生まれた20世紀初頭は、印象主義音楽やシェーンベルクが提唱した十二音技法が花開いた時代でした。若かりし頃から「完成したピアニスト」と称されたリヒテルは、同時代の作曲家たちとも積極的に交流を持ち、彼らの新作初演を多く手がけています。

プロコフィエフやショスタコーヴィチ、ブリテンとはとくに親しく交流を深め、プロコフィエフは、『ピアノソナタ第9番』をリヒテルに献呈しています。その他、ブリテンの作品に関心を示したリヒテルは、ピアノ協奏曲などで共演し、作品の普及に務めました。

文学や絵画にも夢中になった

生粋のピアニストのイメージがあるリヒテルですが、子供の頃から文学や演劇にも造詣が深かったとか。たしかに、ロシア(旧ソビエト)はドストエフスキーやトルストイといった数多くの世界的文豪を輩出しているため、自然に関心を持ったのも頷けます。
また絵画の腕前も相当なものだったようで、自らが描いた作品をレコードのジャケットに用いることもあったそうです。指を痛め演奏できない時期は、本気で画家になることも考えたのだそう。

フランスの作曲家シャルル・グノーの授業に、画家のオーギュスト・ルノワールが参加していたように、ジャンルは異なっても芸術には何か通じるものがあるのかもしれません。

スヴャトスラフ・リヒテルの名演

力強い演奏が魅力のリヒテルですが、ショパンやバッハなどの作品の演奏も根強い人気があります。とくにショパンの『エチュード4番』の演奏スピードは驚愕で、世界でもっとも速く演奏したピアニストとも言われています。

また、リヒテルの精神性の高さが見事に表現されているのが、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』です。今回は、2つの演奏を聴き比べながらお楽しみください。

スヴャトスラフ・リヒテルまとめ

スヴャトスラフ・リヒテルの生涯について解説しました。一見すると「怖そうな」人物ですが、実際の彼はその外見とは裏腹に、とても繊細だったと伝えられています。リヒテルの大胆さと繊細さのピアノの音色は、そうした彼の内面をハッキリと表していたのかもしれません。

チャイコフスキーやラフマニノフなどの名演で知られるリヒテルですが、シューベルトやショパン、プロコフィエフなどレパートリーは幅広く、さまざまな時代の作品を楽しませてくれます。

リヒテルのことを知らなかった方も、この記事をきっかけに、ぜひ彼の演奏に親しんでみてはいかがでしょうか。

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