ブルーノ・ワルターってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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ブルーノ・ワルターという人物をご存知ですか?ブルーノ・ワルターは19世紀中頃に生まれ、20世紀に絶大な人気を獲得した指揮者、ピアニストです。同時代に活躍したマーラーと交流を深め、作品の普及にも大きな役割を果たしました。人生の途中、ナチス・ドイツに迫害されるなど、波乱な人生を送ったワルターですが、その指揮ぶりは「微笑み」に例えられ、後世の指揮者・音楽家に多大な影響を及ぼしています。

そこで今回は、20世紀の偉大なる指揮者ブルーノ・ワルターの生涯について解説します。

ブルーノ・ワルターの生涯


ブルーノ・ワルターの生涯を振り返って見ましょう。激動の20世紀を生き抜いたワルターの生涯は、まさに波乱万丈の生涯でした。

幼少期から才能を発揮

ブルーノ・ワルターは1876年、ドイツ系ユダヤ人の父とユダヤ系の母の子として、ベルリンに生まれました。父は絹糸商会の会計担当者をしており、母は「そこそこの」ピアニストだったそうです。

幼少期から類い稀な音楽の才能を発揮したワルターは、わずか8歳で名門シュテルン音楽院に入学し、ピアノと作曲を学びます。

シュテルン音楽院は、オットー・クレンペラー、クラウディオ・アラウ、モーリッツ・モシュコフスキーといった優れた音楽家を輩出した名門校です。

また、指揮者の祖ハンス・フォン・ビューローが教授を務めていたことでも知られています。

シュテルン音楽院で才能を開花させたワルターは、13歳でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団主催のコンサートにピアニストとして参加し、多くの注目を集めました。
シュテルン音楽院修了後、ピアニストとして華麗なデビューを果たしたものの、ハンス・フォン・ビューローの指揮に感銘を受けたワルターは、ピアニストの道を捨て、指揮者を志すようになります。

若くして指揮者デビュー

1896年、ハンブルク歌劇場を訪れたワルターはグスタフ・マーラーと出会い、以降、部下・友人として親交を深めることになります(ワルターが「マーラーの弟子」と言われることがありますが、実際は師事していません)。

20世紀に入り、マーラーの招きによりウィーン宮廷歌劇場の副指揮者に就任したワルター。その後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場音楽監督、ドイツ・オペラ音楽監督を歴任し、着々とそのキャリアを積み上げます。

また1910年には、ワルター自身を含めた「三大指揮者」の一人に数えられる指揮者、フルトヴェングラーと出会っています。

ワルターの人気はヨーロッパ各国やアメリカにまで広まり、1919年から1933年にかけて開かれた「ブルーノ・ワルターコンサート」には、多くのファンが押し寄せたそうです。
さらに、ホロヴィッツやラフマニノフといった新時代の演奏家たちとも共演し、クラシック音楽の普及に努めています。

ナチス・ドイツの迫害を逃れて

指揮者として絶大な人気を獲得したワルターでしたが、そんな彼をナチス・ドイツの迫害が襲います。嫌がらせならまだしも、ある時には殺人予告までされ、楽屋に銃弾が打ち込まれるという事件もあったそうです。

身の危険を感じたワルターは、多くのユダヤ人音楽家と同じくアメリカに亡命し、カリフォルニアに拠点を置いたのち、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団やメトロポリタン歌劇場の客員指揮者として活動を再開します。

終戦後、1947年から1949年にかけてニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の音楽顧問に就任したワルターですが、1957年に心臓発作を起こし、休養を余儀なくされます。

そして回復後の1960年、マーラー生誕100周年を祝う記念祭での演奏会のため、ウィーンを訪問したワルターですが、これが最後のウィーン訪問となりました。プログタムではマーラーの『交響曲大4番』やシューベルトの『未完成交響曲』が演奏されたそうです。

ワルターの死

マーラー生誕100周年記念祭で大成功を収めたワルターですが、以前から患っていた心臓病が悪化。1962年2月7日、カリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅にて、心不全のためこの世を去りました。享年85歳でした。

遺体はスイスのルガーノに移され、現在もその地で静かに眠っています。

ブルーノ・ワルターにまつわるエピソードを紹介

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ブルーノ・ワルターのエピソードを紹介します。ワルターは新しい録音技術を積極的に採用したほか、レナード・バーンスタインを世に送り出すなど、20世紀のクラシック音楽界に重要な役割を果たしました。

録音技術を積極的に採用

ワルターが活躍し始めた20世紀前半は、録音技術が飛躍的に進歩した時代でもありました。自身の演奏を残すことに積極的だったワルターの音楽人生は、録音技術と共にあったと言っても過言ではないでしょう。

1920〜1960年代までの長期間に渡り多くの録音を残し、現在でも名盤と評されているものも少なくありません。またそのレパートリーも多岐にわたり、友人マーラーの作品はもちろんのこと、モーツァルトやハイドン、シューベルトといったドイツ音楽、ドヴォルザークやチャイコフスキー、バーバーなどドイツ音楽以外の作品も積極的に取り上げています。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのエピソード

ブルーノ・ワルターは自著の中で「私は教育者である」と述べています。そんな彼は、オーケストラ団員に対しても、指導的な振る舞いで対応したと言います。

ある日、自分が理想とする音を出せないウィーン・フィルの団員に対してワルターは、「なぜ皆さんは、美しい音を出さないのですか?もっと歌ってください」と悲しい顔をしながら指導したそうです。それに対し団員たちは「すぐに激怒するトスカニーニ以上に困った指揮者だ」と感想を述べています。

このことから、ワルターはすぐれた「教育者」として楽団員と接していたことがうかがい知れます。

レナード・バーンスタインを世に送り出す

『ウェスト・サイドストーリー』『キャンディード』などの傑作ミュージカルを生み出し、指揮者・ピアニストとして活躍したレナード・バーンスタイン。その人気は今も衰えることなく、多くのファンに愛されています。そんなバーンスタインを一夜にして有名にしたのが、ブルーノ・ワルターでした。

それは1943年のある日のこと。その日の夜も、いつものようにワルターが指揮する予定でしたが、インフルエンザに罹ってしまい、指揮することが困難に。そんなワルターの代役として白羽の矢が立ったのが、レナード・バーンスタインでした。そしてバーンスタインは見事にその日のコンサートを大成功させ、一躍有名人となります。

もしワルターがインフルエンザに罹っていなければ、バーンスタインのセンセーショナルなデビューはなかったのかもしれません。

作曲家としてのブルーノ・ワルター

人生の早くから楽才を示したワルター。大指揮者として活躍する一方で、ワルターは歌曲、室内楽、合唱曲といった作曲も手がけており、『ヴァイオリン・ソナタ』『交響曲ニ短調』など、そのうちのいくつかは録音も残されています。

しかし、作曲の才能はそれほどではなかったようで、ワルターの作品を聴いたマーラーは、妻アルマへの手紙の中で「彼には悪いが、あくびを堪えるのにとても苦労した」と感想を残しています。やはり、ワルターの才能は指揮において発揮されたようです。

モーツァルトに心酔

幅広いレパートリーで知られるワルターですが、なかでもマーラーモーツァルトの演奏には定評があります。あまりにもモーツァルトに心酔していたため、「楽屋でモーツァルトの霊と更新している」という噂まで流れるほどだったと言います。

真偽のほどはわかりませんが、生涯の最後に録音した作品もモーツァルトの『オペラ序曲集』だったことから、ワルターのモーツァルト熱が伝わってきます。

また、20世紀後半を代表する指揮者カール・ベームも「ワルターがモーツァルトの素晴らしさを教えてくれたからこそ、モーツァルトに開眼できた」と述べています。

ブルーノ・ワルターの演奏

最後にブルーノ・ワルター指揮による演奏をお楽しみください。かなり古い動画なので、音は良くありませんが、ワルターの華麗な指揮を楽しめるのではないでしょうか。ワルターが心酔したモーツァルトの『交響曲第40番第4楽章』の映像です。

ブルーノ・ワルターの生涯まとめ

今回はブルーノ・ワルターの生涯について解説しました。同時代の指揮者トスカニーニによる絶対王者的な指揮も魅力的ですが、聴く人に語りかけるようなワルターの指揮もまた味わい深いものがあります。

苦難の時代を懸命に生き抜き、生涯のすべてを音楽に捧げたブルーノ・ワルター。この記事を機会に、さらなるブルーノ・ワルターの世界を堪能してみてはいかがでしょうか。

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