セルゲイ・クーセヴィツキーってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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今回は20世紀の名指揮者の1人、セルゲイ・クーセヴィツキーについて解説します。ユダヤ系ロシア人の家系に生まれたクーセヴィツキーは、コントラバス奏者としてキャリアを開始し、アルトゥール・ニキシュのもとで指揮法を学びました。その後、ボストン交響楽団などさまざまな世界的オーケストラで手腕を発揮したクーセヴィツキーは、のちに「クーセヴィツキー財団」を設立し、後進の音楽家育成に大きな役割を果たしています。
そこで今回は、クーセヴィツキーの生涯についてエピソードを交えながら解説します。

セルゲイ・クーセヴィツキーの生涯について

クーセヴィツキーの生涯について紹介します。クーセヴィツキーはその膨大な財力を活かし、20世紀のクラシック音楽界に多大な功績を残しました。彼がいたからこそ生み出された作品も少なくありません。

コントラバス奏者として活躍

セルゲイ・クーセヴィツキーは1874年7月26日、軍隊音楽師の父アレクサンドルと母アンナの間に生まれました。音楽環境に恵まれたクーセヴィツキーは、幼い頃からヴァイオリン、チェロ、ピアノ、トランペットなど多くの楽器に触れて育ちます。3歳の頃、結核により母を亡くしたものの、奨学金を得て14歳でモスクワ・フィルハーモニー協会音楽アカデミー(現ロシア舞台芸術大学)に入学。

アカデミーではコントラバス奏者としての才能を開花させ、弱冠20歳でボリショイ劇場オーケストラのコントラバス奏者に就任します。そして就任から2年後の1896年にコントラバスのソロデビューを飾ると、1901年には首席コントラバス奏者となり、1903年にはドイツデビューも果たしました。ベルリンでの初リサイタルは大成功を収め、若きクーセヴィツキーの名は、早くも名コントラバスプレイヤーとして知れ渡ることとなります。

またこの頃、チャイコフスキーの影響により『コントラバス協奏曲』を作曲しており、クーセヴィツキーの代表作として今日も高い人気を誇っています。

ニキシュの指導のもと、指揮者デビュー

コントラバス奏者として活躍したクーセヴィツキーは、活動拠点をベルリンに移し、アルトゥール・ニキシュの元で指揮を学びます。そして1908年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者としてデビューすると、翌年にはモスクワに自身のオーケストラを設立するなど、その活動範囲を急速に広げます。

クーセヴィツキーの優れた演奏は、すぐさまヨーロッパ諸国で評判となると同時に、スクリャービンやラフマニノフといった同時代の作曲家たちの作品をいち早く取り上げ、その普及に務めました。
その後1917年から1920年にかけてペトログラード国立管弦楽団の音楽監督を務めましたが、政治情勢の不安定によりパリに亡命。1924年からは、ピエール・モントゥーの後任としてボストン交響楽団の常任指揮者に就任します。

ボストン交響楽団の黄金時代を築く

名指揮者ピエール・モントゥーの後を引き継いだクーセヴィツキーは、24年間にわたりボストン交響楽団に在籍。同オーケストラの黄金時代を築きあげ、世界的水準レベルにまで引き上げます(現在ではアメリカ5大オーケストラの1つです)。
また、ボストン交響楽団時代のクーセヴィツキーは、オネゲルの『パシフィック231』やプロコフィエフの『交響曲第2番』、コープランドの『ピアノ協奏曲』といった同時代の音楽家作品の初演を多く手がけて、作曲家の支援にも積極的に取り組みました。

現在でも毎年夏に開催される世界的な音楽祭「タングルウッド音楽祭」において、教育プログラムの導入を考案したのもクーセヴィツキーです。そして「すぐれた若手音楽家を育てたい」というクーセヴィツキーの思いは現代にも受け継がれ、多くの音楽家が同音楽祭から世界へ羽ばたいています。

20世紀の音楽界に数々の功績を残したクーセヴィツキーは、1951年6月4日、76歳でこの世を去りました。詳しい死因はわかりませんでしたが、現在はレノックス・ヒル墓地の教会で妻ナタリーと共に静かに眠っています。

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セルゲイ・クーセヴィツキーにまつわるエピソードは?

クーセヴィツキーにまつわるエピソードを紹介します。その財力もさることながら、彼に救われた音楽家もいたようです。

ベルリン・フィルハーモニーを私費で雇う

芸術家のパトロンとして著名な、K・K・ウシコフの娘ナタリアと結婚したクーセヴィツキー。多額の持参金を手にした彼は、その資金を基にさまざまな事業を展開します。なかでも、天下のベルリン・フィルを私費で雇い指揮者デビューした話は有名です。

デビュー後もロンドン、ウィーンやパリ、祖国ロシアなどで積極的に演奏活動を行い、指揮者としての地位を高めていきます。ロシア革命(1917-1923)を逃れるためパリに亡命したあとも、膨大な資金を活かした「コンセール・クーセヴィツキー」と称されるコンサートシリーズを開催し、後進の育成に精力的に取り組みました。

ラヴェル編曲によるムソルグスキー作『展覧会の絵』や、ブリテンの『ピーター・グライムズ』、メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』の初演が行われたのも「コンセール・クーセヴィツキー」においてです。

貧困に苦しむバルトークを救う

政治的混乱により、ハンガリーからアメリカに移住したバルトーク。しかし、アメリカでの生活は決して楽なものではありませんでした。生活上の困窮に悩まされたバルトークは、研究意欲が低下し、作曲の意欲も失います。

そんなバルトークの状況に手を差し伸べたのがクーセヴィツキーでした。
当時ボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキーは、「クーセヴィツキー財団」からの委嘱として、自身の70歳記念のための作品を書いて欲しいとバルトークに申し出ます。

当初バルトークはこの申し出を断ったものの、クーセヴィツキーの説得により作曲を承諾しました。そうして生まれた作品が、代表作『管弦楽のための協奏曲』です。これにより作曲意欲を取り戻したバルトークは、以降多くの傑作を生み出します。

『管弦楽のための協奏曲』の初演後、クーセヴィツキーは「過去50年を通じて最高の傑作だ」とバルトークを讃えました。

レナード・バーンスタインを後押し

クーセヴィツキーといえば、レナード・バーンスタインとの関係も重要です。
彼はバーンスタインを息子のように可愛がり、演奏活動を支援し続けました。そしてこの支援に応えるかのように、バーンスタインの出世作『交響曲第2番<不安の時代>』の初演を2人で行います。

クーセヴィツキー亡き後、バーンスタインは彼から贈られたカフスボタンを指揮台に置いて指揮をしたこともあったそうです。

また、「優れた音楽家を世に送り出したい」というクーセヴィツキーの意志を受け継いだバーンスタインは、1990年、国際教育音楽祭「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」を開催し、若手音楽家の発掘に貢献しました。

セルゲイ・クーセヴィツキーの代表作

コントラバス奏者や指揮者、芸術家のパトロン、教育者と各方面で活躍したクーセヴィツキー。彼は作曲家としても名作を残しており、その代表作が『コントラバス協奏曲』です。

普段、独奏曲として注目されることの少ないコントラバスですが、本作はコントラバス曲の独奏曲として、現在も根強い人気を獲得しています。
ロマン情緒が漂う美しいメロディーと、力強さを兼ね備えた名曲ですので、ぜひ聴いてみてください。

まとめ

セルゲイ・クーセヴィツキーの生涯について解説しました。もし20世紀にクーセヴィツキーがいなければ、現在名作として演奏される作品の多くは存在しなかったかもしれません。また、アメリカにおけるクラシック音楽の地位を大幅に向上させたのも、クーセヴィツキーの功績だと言えるでしょう。
これまでクーセヴィツキーのことを知らなかった方も、この記事を参考にぜひ彼の演奏や作品を聴いてみてはいかがでしょうか。

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