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今回紹介するのは、20世紀を代表する人気指揮者レオポルド・ストコフスキーです。クラシック音楽ファンの方ならご存知の方も多いのではないでしょうか。世界的な指揮者であると同時に、編曲家・オルガニストとしても活躍したストコフスキーは、オーケストラ編成や楽曲の改変にも積極的に取り組んだことでも知られ、「ストコフスキー・サウンド」と呼ばれる独自の音響効果を生み出しました。
およそ100年にもおよぶ生涯において、ストコフスキーは20世紀のクラシック音楽にどのような影響をもたらしたのでしょうか。そこで今回は、「音の魔術師」ストコフスキーの生涯に迫ります。
ストコフスキーの生涯について
「100歳まで現役」と豪語したストコフスキーはどのような生涯を送ったのでしょうか。ストコフスキーが活躍した20世紀は、技術的・世界的な意味においてまさに「激変の時代」でした。
神童現る
レオポルド・ストコフスキーは1882年4月18日、イリギスのロンドンに生まれました。父ジョーゼフはポーランド移民、母はアイルランドからイギリスに渡った移民だったそうです。出生地に関して、ストコフスキーはのちのインタビューの中で、「ポメラニア地方出身である」と答えていますが、やはりロンドン生まれというのが現在の定説となっています。
8歳でオルガンとヴァイオリンを始めたストコフスキーは、早くから音楽の才能を発揮し、当時最年少の13歳でイギリス王立音楽院に入学。その後、オックスフォード大学ザ・クイーンズ・カレッジを卒業後、ロンドン王立音楽学校へ進学し、作曲・オルガン・指揮法を学んでいます。
ここでも優秀な成績を収めたストコフスキーは、卒業後の1903年、ロンドンの聖ジェームス教会のオルガニストとしてデビューを果たしました。
そして教会オルガニストとして活躍したのち、1909年、パリと地元ロンドンにて指揮者デビューとなります。
世界各国の指揮者として活躍
その後、すでに解散状態にあったアメリカ最古のオーケストラの一つ、シンシナティ交響楽団の常任指揮者に就任されたストコフスキー。そして傾きかけていたオーケストラを見事に再建した彼は、同交響楽団で3シーズンをこなし、1911年までその役職を勤めています。
1912年以降、ストコフスキーの代名詞とも言える「フィラデルフィア管弦楽団」の常任指揮者に就任すると、1912年から1949年までの37年間をこの地で過ごし、同管弦楽団を世界一流の管弦楽団へと育て上げます。
当時のアメリカでのストコフスキー人気は飛び抜けており、その人気は大指揮者トスカニーニと並ぶほどだったと言います。しかし1941年、理事会との対立がきっかけとなり、1960年まで関係が断たれることに。
100歳まで現役を貫く
フィラデルフィア管弦楽団を去ったストコフスキーは、ニューヨーク・シティ管弦楽団やNBC交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団を歴任。第2次世界大戦後の1965年には日本にも来訪し、日本フィルハーモニー交響楽団や読売交響楽団と共演するなど、精力的に音楽活動を続けました。
そしてなんと1976年、94歳になったストコフスキーは、新たにCBCコロンビアと6年契約を結び「100歳まで現役」を宣言。しかしこれは実現することはなく、翌年1977年9月13日、イングランドのハンプシャー州にある自宅にて、心臓発作のためこの世を去りました。享年95歳という大往生でした。同19日にはラフマニノフの『交響曲第2番』の録音を控えていたといいます。
ストコフスキーを物語るエピソードは?
クラシック音楽において、さまざまな改革をしたストコフスキーにはどのようなエピソードがあるのでしょうか。今回は数あるエピソードの中から代表的なものを4つ紹介します。
1.編曲にも積極的
ストコフスキーは指揮者としての活動はもとより、編曲家としても優れた業績を残しています。その代表品がJ・S・バッハの『トッカータとフーガニ短調』です。当初この作品はオーケストラの練習曲用として編曲されましたが、団員からの高評価をきっかけに、「ストコフスキー編」として現在でもコンサートのプログラムとして演奏されています。
またストコフスキーは、ムソルグスキー作曲『展覧会の絵』の編曲を手がけたことでも知られています。『展覧会の絵』のオーケストレーションといえば、モーリス・ラヴェルの編曲が有名ですが、作中の「プロムナード」をトランペットで表現したラヴェルに対して、ストコフスキーは弦楽器で表現するという大胆な試みを施しました。「何か違った表現をしたい」というストコフスキーのチャレンジ精神がうかがえます
2.オーケストラ編成を改変
常に「より良い音楽」を探求し続けたストコフスキー。そんな彼は、オーケストラの配置にもこだわり続けました。現在のオーケストラでは、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが客席から見て左にまとめて配置されるのが一般的ですが、この配置を考案したのがストコフスキーです。
この配置は「ストコフスキー・シフト」と呼ばれ、20世紀のオーケストラ編成に大きな改革をもたらしました。ここにもストコフスキーの斬新さが現れていますね。
3.音楽のために常に勉強
ストコフスキーが活躍し始めた20世紀初頭は、メディアが広く発達した時代でした。音楽の分野ではレコーディング技術が出現し、演奏を残せるようになったのもこの時代からです。
ストコフスキーは、早くからこのレコーディング技術に目をつけ、アコースティック録音の時代から電気録音の時代に至るまで、数多くの優れた演奏を残しています。
1925年、世界で初めてステレオ録音をしたのは、ストコフスキーだと言われています。ちなみに、この時に演奏した作品はサン=サーンスの『死の舞踏』でした。
また、勉強熱心だったストコフスキーは、新しい技術に順応するため、わざわざベルリンまで出かけ、電気音響学と録音法を2ヶ月にわたり学んだとも言われています。このエピソードから、ストコフスキーがいかに強い探究心の持ち主だったかがわかりますね。
4.数々の初演をこなす
ルネサンス音楽から現代音楽まで、幅広いレパートリーをこなしたストコフスキー。そんな彼は、どんな時代の音楽でも新鮮な演奏を披露し、聴衆を魅了したことでも知られています。
とりわけ、当時流行したシェーンベルクやアルバン・ベルクなどの無調音楽や十二音技法に理解を示し、自身の演奏会プログラムにも積極的に取り上げています。
またストコフスキーは、数多くの世界初演・アメリカ初演を手掛け、ストラヴィンスキーの『春の祭典』やファリャの『恋は魔術師』、ラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』といった作品をアメリカで初演したのもストコフスキーでした。
そういう意味において、ストコフスキーはアメリカにおけるクラシック音楽の伝道師として、重要な役割を果たしたと言えるでしょう。
ストコフスキーの演奏風景
ストコフスキーの演奏風景を紹介します。
動画はストコフスキー自身のアレンジによるJ・S・バッハの『トッカータとフーガニ短調』です。現在でもコンサートのプログラムとしてたびたび演奏されています。
ストコフスキーの生涯のまとめ
ストコフスキーの生涯について紹介しました。かなり個性的な人物であり、今回紹介したエピソード以外にも多くのエピソードが残されています。
しかし彼の音楽の本質は、楽譜以上に「作曲家に近づくこと」にあり、常に最高の音楽を求めたところにあります。
そんなストコフスキーの音楽性について、ピアニストのグレン・グールドは「フルトヴェングラーと並び超越的な瞬間を与えてくれる人物」と評しました。
これまでストコフスキーをご存知なかった方も、この記事を機会に「色彩あふれる」ストコフスキーの作品に触れてみてはいかがでしょうか。
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