アルトゥール・トスカニーニ(以下トスカニーニ)は、20世紀をもっとも代表するイタリア出身の指揮者です。チェロ奏者としてキャリアをスタートさせたトスカニーニは、紆余曲折を経て指揮者に抜擢され、フルトヴェングラーと並び称される指揮者として、世界中にその名を轟かせました。
また、作曲家レスピーギの才能をいち早く見抜き、世に知らしめたのもトスカニーニです。
偉大な指揮者として、数々の功績を残したトスカニーニはどのような人生を歩んだのでしょうか。そこで今回は、エピソードを交えながらトスカニーニの生涯を解説します。
アルトゥール・トスカニーニの生涯
トスカニーニは多くの世界初演を行うほか、若い演奏家や作曲家への支援も惜しみませんでした。89年に及ぶ彼の生涯を簡単に振り返ってみましょう。
チェリストから指揮者へ抜擢
アルトゥール・トスカニーニは、1867年イタリアのナポリに生まれました。偉大な指揮者といえば、音楽一家かと思いますが、父クラウディオは洋服の仕立て屋、母パオラは裁縫師を営む一般家庭に育っています。
しかしトスカニーニは早くから音楽の才能を示し、パルマ王立音楽院に入学。9年間の学生生活で、チェロ、作曲、ピアノを学び、卒業試験ではいずれの分野でも最高点を獲得し、名誉ある学生生活を送りました。
音楽院を卒業後はオペラ・カンパニーにチェリストとして加入し、ヨーロッパ各国や南米へ演奏旅行に訪れています。
そんなトスカニーニに転機が訪れたのは、ヴェルディのオペラ『アイーダ』の公演が間近に迫っていたときでした。当時楽団の指揮であったレオポルド・ミゲスと団員たちとの間に亀裂が生じ、ミゲスは楽団を去ってしまいます。
指揮者を失い困惑したオペラ・カンパニー。
しかし、トスカニーニが「アイーダの全パートを暗記していた」ため突如指揮者に抜擢され、その舞台は驚異的な喝采を浴びて幕を閉じたそうです。
これをきっかけにトスカニーニは指揮を任されるようになり、わずか19歳で指揮者としてのキャリアを開始するにいたったのでした。
アメリカデビュー
指揮者デビュー直後のトスカニーニは、チェリスト兼指揮者として活動したものの、次第に指揮の魅力に引かれ、本業指揮者として活躍し始めます。
その後、最初の10年間は主にイタリアで活動し、プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』やレオンカヴァッロの『パリアッチ』の世界初演をするなど、着実に指揮者としてのキャリアを重ね、徐々にその名が知れ渡ります。
1908年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に入団すると、歌劇場の総支配人に就任。1915年までの7シーズンで数々のオペラ制作に携わり、新しいオペラの基準を打ち立てました。余談ですが、トスカニーニの義理の息子はピアニストのウラディミール・ホロヴィッツであり、カーネギーホールで行われたチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』の演奏は現在でも伝説的名演として知られています。
メトロポリタン歌劇場を退団後は、ザルツブルク音楽祭で指揮したほか、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団に在籍するなど、世界的指揮者としてその手腕を遺憾無く発揮しました。
1930年代半ばに引退を考えたトスカニーニ。
しかしちょうどこの頃からラジオ・コンサート用の交響楽団が流行し始め、トスカニーニはNBC交響楽団の首席指揮者として多くの名演を生み出しています。
晩年も意欲的に活動
60歳をすぎてからも世界的指揮者として第一線で活躍したトスカニーニでしたが、次第に体調に変化が訪れます。
1951年に最愛の妻カルラが死去したことも、トスカニーニの衰えに拍車をかけた原因だったのかもしれません。
妻の死から3年後の1954年、完全に指揮者としての人生を終えたトスカニーニは、1957年1月1日に脳溢血のため倒れ、およそ2週間後の1月16日にこの世を去りました。
享年89歳でした。遺体は祖国イタリアに運ばれ、ミラノに埋葬されています。
トスカニーニの性格を物語るエピソード
トスカニーニはエピソードの宝庫とも言えるほど、さまざまな逸話が残されています。
今回はその中から、性格を物語る4つのエピソードを紹介します。
激情型の性格の反面、ナイーブで繊細な一面も持ち合わせただったようですよ。
激情型の性格
とても性格の激しい人物として知られるトスカニーニ。リハーサル中はとくに厳しかったようで、思い通りの音が出ない場合には、指揮棒をへし折るほど激昂することも少なくありませんでした。また、スコアを破ったり、譜面台を破壊したというエピソードも残っています。
トスカニーニの性格を表す事件としてもっともよく知られているのが、「団員を指揮棒で突き刺して」裁判沙汰にまで発展したことが挙げられます。
一見すると、とんでもない人物のように思われますが、次の日には忘れており、あっけらかんとしていたのだとか。
『トゥーランドット』事件
次に紹介するエピソードは、『トゥーランドット』事件です。
『トゥーランドット』とはプッチーニ作の未完のオペラで、プッチーニの死後、弟子のアルファーノによって完成されました。
このオペラをトスカニーニが指揮した時のこと。
トスカニーニはプッチーニ自身が作曲したフィナーレ直前まで指揮し、「巨匠はここで作曲を終えました」と言って舞台から降り、公演を突然終了してしまいます。
弟子が作曲した部分は、プッチーニの作品ではないというトスカニーニの態度の現れだったわけです。プッチーニを「先生」と慕っていたトスカニーニの誠意が垣間見えるエピソードですね。
ラヴェル事件
もう1つ有名な事件に「ラヴェル事件」があります。
それはラヴェルの代表作『ボレロ』を指揮したときに起こりました。演奏は大成功に終わり、聴衆たちから割れんばかりの拍手が起こるなか、トスカニーニは会場のラヴェルを立たせ、拍手に応えようと仕向けます。ところがラヴェルは自分の席に座ったまま、これに応じませんでした。その理由は「意図したテンポと異なっていたから」だとか。
この出来事はいち早く新聞に掲載され、当時の音楽業界で大きな話題となったそうです。
しかし後日、この事件は「誤解である」と、ラヴェルはトスカニーニへの手紙の中で書き記しています。
大指揮者の心の裏側
熱しやすく、冷めやすい激情型だったトスカニーニ。
たびたび問題行動を起こした彼ですが、それは音楽への畏敬の思いがあったからこそ。
事実、インタビューの中で「演奏会の前は、毎回震えるほど緊張と恐怖が襲ってくる」と語っています。
性格の激しい部分ばかりが目立ちますが、実はそれはナイーブな本心の裏返しだったのかもしれません。
トスカニーニの演奏風景
トスカニーニはバッハやヘンデルなどのバロック音楽から、ヴェルディやプッチーニなどのオペラ作品、さらにはガーシュウィンといった現代音楽まで幅広いレパートリーで好評を博しました。
そのなかで、筆者おすすめはヴェルディ作曲『レクイエム』です。
ヴェルディと面識のあったトスカニーニは、作曲者本人から絶大な信頼を得ており、ときには作品について意見を伝えることもあったのだとか。
「Dies Irae(怒りの日)」の気迫に満ちた演奏は、まさに圧巻。1度は聴いたことがある曲だと思いますので、ぜひ聴いてみてください!
まとめ
アルトゥール・トスカニーニの生涯を解説しました。トスカニーニの指揮の特徴は、なんといっても楽譜に対する厳密さにあります。正確に刻まれるテンポやリズムは、聴く人を作品の中に引き込むこと間違いなしです。
今回紹介した演奏以外にも、トスカニーニは多くの録音を残していますので、聴き比べるのも楽しみの1つかもしれません。これまでトスカニーニの演奏を聴いたことがなかった方も、この記事を参考にぜひトスカニーニの指揮に触れてみてください。
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