[amazon]Dinu Lipatti The Definitive Progra
ディヌ・リパッティという人物をご存知でしょうか。ルーマニアに生まれたリパッティは、幼少の頃から卓越したピアノの才能を発揮し、人生の早くから世界的に注目されたピアニストです。繊細でありながらも祈りのようなリパッティの演奏は、死後70年以上を経過した現在もなお、多くの人々の心に音楽の尊さを伝えてくれます。
そこで今回は、夭折の天才ピアニスト、ディヌ・リパッティの生涯について解説します。
ディヌ・リパッティの生涯について
リパッティの生涯について簡単に解説します。惜しくも33歳という若さでこの世を去ったリパッティですが、生前は絶大な人気を獲得し、世界的なピアニストとして賞賛を浴びました。
音楽一家に生まれる
ディヌ・リパッティは1917年4月1日、ルーマニアの裕福な家庭に生まれました。父はパブロ・サラサーテに師事したヴァイオリニスト、母もピアニストという音楽一家に育ったリパッティは、幼い頃からピアノの才能を発揮し周囲を驚かせます。そんな彼が一気に注目を集めたのが1930年、13歳のときに開いたコンサートでのことでした。グリーグの『ピアノ協奏曲』の演奏で大喝采を浴びたリパッティは、天才ピアニストとして知られるようになり、これ以降、大ピアニストのアルフレッド・コルトーに師事するようになります。
その後1934年、パリへ渡ったリパッティはパリ高等音楽院に入学。ピアノの他にポール・デュカスやイーゴリ・ストラヴィンスキーから作曲を、シャルル・ミュンシュから指揮を学ぶなど、さまざまな分野で才能を開花させていきます。
18歳でピアニストデビュー
1935年、18歳でパリ高等音楽院のリサイタルでピアニストデビューを果たしたリパッティ。1939年にはサル・プレイで開かれた大規模コンサートを成功させ、世界的な名声を獲得したのでした。順風満帆かのように思われた人生でしたが、そんなリパッティにも第2次世界大戦の足音が近づき始めます。結局、戦争によって華々しいキャリアが中断されたリパッティは、ナチスの進行を逃れるためルーマニアを脱出。1943年からスイスのジュネーヴへ移住し、ジュネーヴ音楽院のピアノ科教授の職を得て事なきを得ました(このときまだ26歳)。
早すぎる死
音楽院教授として活動していたリパッティですが、間もなくして体調に変化が訪れます。そんな中、1948年に妻マドレーヌと結婚したものの、幸せな時間も束の間、健康状態は悪化の一途をたどり演奏活動も極めて限られたものとなっていきます。
そして1950年。フランスのブザンソン音楽祭でのリサイタルを最後に、演奏家としてのキャリアが中断され、同年12月2日、33歳という若さでこの世を去りました。
ブザンソン音楽祭では、病気により疲労困憊にもかかわらず、バッハの『パルティータ第1番』やモーツァルトの『ピアノ・ソナタ』、シューベルトの即興曲、そしてショパンのワルツ14曲のうち13曲を全て演奏し、ピアニストとしてのキャリアを終えています。
一般にリパッティの死因は白血病といわれていますが、実際は悪性リンパ腫の一つである、ホジキンリンパ腫だったそうです。
ディヌ・リパッティの性格を物語るエピソード
リパッティのエピソードを3つ紹介します。彼の卓越したピアノテクニックは「ラフマニノフと並ぶもの」として絶賛されました。
20世紀初頭における最高のピアニストの1人
卓越したテクニックと綿密な解釈で評価されたリパッティ。本記事ではバッハとショパンの演奏のみを紹介していますが、レパートリーも豊富で、モーツァルトやラヴェル、リストやグリーグなどの演奏でも高く評価されています。そしてその評価は現在でも衰えておらず、2019年、英国営放送BBCが現役ピアニストを対象に実施した「歴代ピアニストランキング」でも6位に選出されています。
またアメリカの音楽評論家ハロルド・ショーンバーグは、リパッティの演奏について「鍵盤の名手リパッティは、この時代の最高の芸術家の一人に成長しただろう。彼はラフマニノフ級のピアニストで、巨大なテクニックと強いリズム感に恵まれていた」と絶賛しています。
リパッティがもう少し生きていてくれたら、後世にさらに大きな影響を与えたことは間違いありません。
アルフレッド・コルトーが激怒
11歳でブカレスト音楽院に入学したリパッティ。彼のピアノの才能は周囲と比較しても卓越したものでした。そんな彼があるピアノコンクールに出場したときのこと。コンクールで優れた演奏を披露したものの、1位を獲得できず2位という結果に終わります。この結果に納得できず、審査員に抗議したのがアルフレッド・コルトーでした。あまりに激昂したコルトーは、そのまま審査員を辞退。コンクールに重い雰囲気が流れたそうです。
しかしこの事件により2人の距離は縮まり、コルトーがリパッティの師になるきっかけとなりました。
ルーマニア・アカデミー会員に選出される
1950年12月、33歳で夭折したリパッティ。しかし彼の功績は死後も色褪せることなく、1997年にはルーマニア・アカデミー会員に選出されています。死後40年以上を経過してからの選出は異例のことであり、これだけでもリパッティの偉大さがよくわかるエピソードです。また21世紀に入ってからもリパッティの人気は続き、2017年11月にはパウル・ヒンデミットなどと共演した音楽会の映像が、ロンドンの映画館において一般公開されています。
ディヌ・リパッティの演奏風景
筆者が初めてリパッティの演奏を聴いたのは学生時代。レコードショップでたまたま購入した、フルトヴェングラー指揮のモーツァルト『ピアノ協奏曲23番』のカップリングとして収録されたものでした。ピアノ協奏曲を聴き終わり、何気なく聴いたバッハの『シチリアーナ』の演奏に驚愕したのを今でも鮮明に覚えています。
暗闇の中で、周囲を仄かに照らすロウソクの揺らぎのような演奏。あるいは、一心に神に祈りを捧げる敬虔な修道士の姿を連想させる世界観、そういったものを感じさせてくれる演奏です。この世界観については「録音の古さ」という趣きがプラスされているかもしれませんが、リパッティの才能を知る上ではこれ以上ない演奏であることは間違いありません。
バッハ作『シチリアーナ』
余談ですが、本作は現在ではバッハ作ではないといわれています。
ショパン作『ピアノ協奏曲第1番』
こちらはリパッティが得意としたショパンの演奏です。作品の繊細さと力強さが見事に表現されています。
まとめ
今回は20世紀初頭を代表するピアニスト、ディヌ・リパッティを紹介しました。その生涯があまりにも短かったことは悔やまれますが、彼が残した名演はこれからも世界中で愛され続けることでしょう。録音は古いですが、リパッティの演奏を聴いたことがなかった方は、この記事をきっかけに彼の演奏を聴いてみてください。現代のピアニストたちの演奏とは一風違った趣きのある演奏が楽しめると思いますよ!
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