ヴィルヘルム・バックハウスってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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ドイツの伝統的ピアノスタイルの継承者と称されるヴィルヘルム・バックハウス(以下バックハウス)。その洗練された演奏スタイルとドイツ音楽の伝統を受け継ぐ深い精神性は、聴く人の心を捉えて離しません。

幼少期から優れたピアノの才能を発揮したバックハウスは、早くから指揮者アルトゥール・ニキシュに認められ、ピアニストのみならずクラシック音楽界全体に大きな影響を及ぼしました。
そこでこの記事では、大ピアニスト・ヴィルヘルム・バックハウスの生涯についてエピソードを交えながら解説します。

ヴィルヘルム・バックハウスの生涯


バックハウスの生涯について紹介します。その人生は、まさにピアノのための人生だったと言えるかもしれません。

7歳でライプツィヒ音楽院に入学

ヴィルヘルム・バックハウスは1884年、ドイツ・ライプツィヒに8人兄弟の5番目の子供として生まれました。4歳でアマチュアピアニストだった母からピアノのレッスンを受けると、早くから楽才を発揮。わずか7歳でアルトゥール・ニキシュの推薦によりライプツィヒ音楽院に入学し、周囲から「神童」と称されます。

1899年まで同音楽院に通ったバックハウスは、ピアノのほかヴァイオリンや作曲を学んでおり、ブラームスと出会ったのもこの時期です。また、ピアノはリストの最後の弟子であるアレクサンドル・ジロティや「鍵盤の獅子王」と称されたオイゲン・ダルベールに師事し、その才能をさらに開花させていきます。余談ですが、アレクサンドル・ジロティはバッハの『平均律クラヴィーア』の編曲者であり、セルゲイ・ラフマニノフの従兄でもある人物です。

1900年、16歳でデビューを果たしたバックハウスは、すぐさまコンサートツアーを開催し、人生の早くからヨーロッパ各国でその才能が認められる存在となりました。
また、1905年から1912年にかけてと、1925年と1926年にマンチェスター王立音楽院や名門カーティス音楽院で教職につき、後進の育成にも積極的に取り組んだようです。
しかし1926年以降は教職を引退し、演奏活動に専念しています。

2度の戦争を乗り越えて

順風だったバックハウスのキャリアにも、次第に戦争の足音が近づきます。
第1次世界大戦中兵役に召集されたバックハウウスは、前線は免れたもののギーセン、ベルリンに配属され、最終的にエリザベート王妃親衛隊第3連隊に所属しており、負傷した兵士のために多くのコンサートを行ったそうです。

終戦後の1930年代になると、再びドイツ国内でコンサートを開き、その他南米でもコンサート活動を続けており、1937年にはショパン国際ピアノコンクールで審査員を務めるなど、名実共に世界的ピアニストとして揺るぎない地位を獲得しています。

第2次世界大戦中も演奏活動は継続され、終戦後はナチス・ドイツとの関係によりアメリカへの入国が一時禁止されていたものの、1954年に入国禁止が解け、3月にはカーネギーホールにてコンサートが行われました。
また、世界各国を巡るコンサート・ツアーの際には初来日を果たしており、日本の皇室の前で演奏を披露しています。

栄誉あある晩年

第2次世界大戦の影響により数年間コンサート活動が休止されたものの、再びキャリアを開始したバックハウス。その偉大な功績により、1966年にオーストリア共和国芸術名誉十字勲章、ピアノメーカーのベーゼンドルファーから20世紀最高のピアニストに送られる指輪が授与され、ピアニストとしてこれ以上ない栄誉ある晩年を過ごしています。

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その後1969年6月、コンサートでベートーヴェンのピアノソナタ演奏中に心臓発作を起こし、コンサート終了後に病院へ搬送されたものの心臓は回復することなく、7日後の7月5日にオーストリアのフィラッハにてこの世を去りました。バックハウスが最後に演奏した曲は、シューベルトの「即興曲」でした。

ドイツの伝統を受け継いだバックハウス最後の演奏がシューベルトの作品というのは、もしかしたら天の采配だったのかもしれません。

ヴィルヘルム・バックハウスの性格を物語るエピソードは?

バックハウスのエピソードについて簡単に4つ紹介します。
ハンガリーの作曲家バルトーク・ベーラを「作曲家へと転身させた」のはバックハウスその人というのも興味深いエピソードです。

世界初の協奏曲録音に携わる

音楽史上初めて録音演奏を行ったのが、ブラームスであるのは有名な話です。
実は、バックハウスも「音楽史上初」となる偉大な業績を打ち立てており、人類で初めて「ピアノ協奏曲」を録音したのはバックハウスでした。
録音時の作品はエドヴァルド・グリーグの『ピアノ協奏曲』だったそうで、当時は全曲録音する技術がなかったものの、一部の録音に成功しています。

その後録音技術が飛躍的に進歩し、バックハウスはベートーヴェンのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲全集を録音し、ピアニストとして初となるショパンのエチュード全集を録音しています。

バルトーク・ベーラとコンクールで争う

バックハウスのエピソードとして、バルトーク・ベーラとの話は欠かせません。
16歳でコンサートデビューし、ドイツはもちろん、イギリスやパリなどヨーロッパ各地で人気を博したバックハウス。そんな彼がアントン・ルービンシュタイン・コンクールに出場したのは1905年のこと。

バックハウスは見事コンクールに優勝し、その名声はさらに高まることになります。
一方、同コンクールで準優勝を獲得したものの、大きな落胆を味わったのがバルトーク・ベーラでした。この結果に失望したバルトークはピアニストの道を断念し、作曲家としての道を歩み始めます。

バルトークにとっては辛い結果だったかもしれませんが、バックハウスの存在がなければ、その後の傑作は生まれなかったかもしれませんね。

人間離れした耳のよさ

演奏家にとっては珍しいことではないかもしれませんが、バックハウスも優れた聴覚の持ち主でした。ある日、グリーグのピアノ協奏曲のリハーサル中のこと。
本番で使用するピアノがきちんと調律されておらず、バックハウスは半音低いことに気がつきます。

そこでリハーサルではピアノに合わせて変ロ短調で演奏し、演奏会当日では元のイ短調で演奏したそうです。聴覚の良さもさることながら、瞬時に変更できる対応力にも驚きますね。

ヴィルヘルム・バックハウスの演奏風景

ベートーヴェン、ツェルニー、そしてリストの直系の弟子として学んだバックハウス。
その演奏スタイルは、リヒテルの芯を打つような演奏法やホロヴィッツの強烈なインパクトとは趣の異なるものでした。
同時代のピアニストと同様に、豊富なレパートリーを誇っていたバックハウスですが、今回はやはりドイツの作品を紹介します。
不必要な演出や表現を避け、作品そのものと真摯に向き合う演奏をお楽しみください。
とくに、第2楽章の哲学的な演奏は必見です。

こちらはブラームスの『ピアノ協奏曲第2番』のリハーサル風景です。
洗練された演奏スタイルは、晩年さらに磨きがかかっています。

まとめ

ドイツ・ピアノの正当な継承者であるヴィルヘルム・バックハウスについて解説しました。
必ずしも「個性的な演奏」とは言えないかもしれませんが、ベートーヴェンやブラームスが望んだ音に近いことは間違いありません。
そしてなによりも、バックハウスの奏でる音色には他のどのピアニストにも出せない「聴きやすさ」があります。
これまでバックハウスの演奏を聴いたことがなかった方でも、スッと耳に馴染む演奏ですので、この記事を機会に他の演奏も聴いてみてはいかがでしょうか。

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