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20世紀最高のピアニストとして語り継がれるウラディミール・ホロヴィッツ(以下ホロヴィッツ)。彼の豪快で大胆な演奏法は、ピアニストの世界に大きな革命をもたらしました。とりわけラフマニノフの『ピアノ協奏曲第3番』は、ホロヴィッツの代名詞とも言える演奏であり、生涯にわたり多くの名演を残しています。
またホロヴィッツはキャリアの途中まで作曲家を目指していたことはあまり知られていません。
そこでこの記事では、ホロヴィッツの生涯やエピソードについて詳しく解説していますので、ぜひ最後まで読んで参考にしてくださいね。
ウラディミール・ホロヴィッツの生涯
20世紀最高のピアニストと称されるホロヴィッツ。しかしその生涯は決して平坦なものではありませんでした。
類い稀なピアニストの誕生
ウラディミール・ホロヴィッツは1903年、現在のウクライナ・キエフ(キーウ)に、4人兄弟の末っ子として生まれました。アマチュアピアニストであった母から最初のピアノの手ほどきを受けたホロヴィッツは、瞬く間にその才能を開花させます。
これは母だけの影響ではなく、叔父のアレクサンダーがスクリャービンの弟子であったことにも由来するかもしれません。
実際、ホロヴィッツが10歳の頃にスクリャービンの前で演奏する機会があったようで、スクリャービン本人から「非凡な才能がある」と認められています。
9歳でキエフ音楽院に入学したホロヴィッツ。16歳まで同校で学び、卒業時にはラフマニノフの『ピアノ協奏曲第3番』を演奏し、高い評価を獲得しています。
1920年、17歳で初のリサイタルを開いたホロヴィッツは、それ以降ウクライナやロシア各地でピアニストとして成功を収め、1926年にはベルリンで初の国外コンサートを行いました。
早くからピアニストとして成功したホロヴィッツでしたが、本人はピアニストよりも作曲家を志していたそうで、家計を助けるためにやむなくピアニストとして活動していたと言われています。
たびかさなる精神的不調に悩まされる
1930年代に入り、世界的指揮者トスカニーニと初共演を果たしたホロヴィッツは、その後活動の拠点をアメリカへ移し、1944年にはアメリカ市民権を獲得しました。ちなみに、ホロヴィッツはトスカニーニの娘ワンダと結婚したため、トスカニーニは義理の父にあたります。
ピアニストとして誰の目にも成功を獲得したかのように見えたホロヴィッツですが、周囲の期待の高まりと反比例するかのように次第に自信を失い始めます。この原因は定かではありませんが、1936年から1938年、1953年から1965年、1969年から1974年、そして1983年から1985年のおよそ12年間にわたり重いうつ病に苦しめられ、演奏活動を休止に追い込まれてしまいました。
辛い闘病生活を送ったホロヴィッツですが、12年ぶりに開かれたリサイタルで見事カムバックし、ショパンやシューマン、スカルラッティなどの名盤を録音するまでに回復します。
大ピアニストとして返り咲いた晩年
70歳になってもピアニストとして意欲的に活動したホロヴィッツ。1980年代には初来日し、日本のクラシック音楽ファンを湧かせました。また亡くなる3年前の1986年には、1925年以来初めてソ連を訪れ、レニングラードにてリサイタルを開催しています。
生涯にわたりピアニストとして活動したホロヴィッツですが、最後のレコーディングを終えてから4日後の1989年11月5日、自宅で食事中に起きた心臓発作によりこの世を去りました。享年86歳。遺体は義父トスカニーニが眠るミラノに埋葬され、最後にレコーディングされた音源は「ザ・ラストレコーディング」として発表されています。
ウラディミール・ホロヴィッツの性格を物語るエピソードは?
ここではホロヴィッツにまつわるエピソードを4つ紹介します。アルフレッド・コルトーと同じく、日本文化にも強い興味を持っていたようです。
トマス・ビーチャムの指揮を無視する
ホロヴィッツがチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』で鮮烈なアメリカデビューを果たした1928年のこと。この年は、指揮者トマス・ビーチャムもアメリカデビューを飾った年でもありました。
二人が共演する際、作品のテンポについて意見が合わず、見切り発車的に演奏会が開かれます。当然、オーケストラとピアノの演奏は噛み合うことなく、次第に音楽全体が崩れ始めたのは言うまでもありません。
そしてこの事態を危惧したホロヴィッツは、自らがオーケストラをリードすることを決心し、徐々にテンポをあげ始めます。その結果、演奏は大成功となり、聴衆からは大きな声援と拍手で絶賛されました。指揮者を無視するのは勇気のいることですが、ホロヴィッツの信念がうかがえるエピソードです。
数々の世界初演を披露
ホロヴィッツは当時の作曲家とも親交を深め、同時に彼らの作品の紹介にも積極的に取り組んでいます。ラフマニノフとの交友関係は有名ですが、それ以外にもプロコフィエフやカバレフスキー、バーバーなどとも親しく、彼らのピアノソナタの世界初演を行っています。
作曲者から初演依頼は、よほどの信頼関係がなければ頼まれることはありません。
そのため、ホロヴィッツがいかに作曲家から信頼されていたかがわかりますね。
日本文化にも興味津々
ホロヴィッツの初来日は1983年のこと。しかし、ホロヴィッツの演奏はすでに衰えており、音楽評論家の吉田秀和が「壊れた骨董品」と称したのは有名な話です。
演奏が酷評され気分を害したホロヴィッツでしたが、1986年、82歳という高齢にもかかわらず再び来日し、完璧な演奏で日本の聴衆を魅了しました。そんなホロヴィッツは日本文化に強い関心を示し、自宅リビングの壁に「一の谷合戦図屏風」を飾るほどだったと言います。もしかしたら、日本文化の奥ゆかしさが大ピアニストの感情を揺り動かしたのかもしれません。
自身で編曲も担当
卓越した表現力と超絶技巧を備えていたホロヴィッツは、既存の作品を独自にアレンジしたことでも知られています。
『死の舞踏』や『結婚行進曲による変奏曲』、『星条旗よ永遠なれ』といった作品がそれで、とくに、第2次世界大戦中におけるアメリカコンサートでは、『星条旗よ永遠なれ』が演奏されるまで、聴衆が帰らなかったそうです。
その他、ムソルグスキーの『展覧会の絵』の変奏は、ホロヴィッツの編曲の才能が存分に発揮された名演であり、現在も伝説として語り継がれています。
ウラディミール・ホロヴィッツの演奏風景
すべてのピアニストに衝撃を与えたホロヴィッツ。その技術と迫力はそれまでの常識を覆し、数々の名演を生み出しました。ホロヴィッツの登場により、ルービンシュタインは「イチから自分の演奏をやり直した」とも言われています。
ショパンやリスト、チャイコフスキーなどの演奏で好評を博したホロヴィッツですが、筆者のおすすめはやはり、ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第3番』の演奏です。
ホロヴィッツの演奏を聴いたラフマニノフは感動のあまり「私よりうまくこの曲を演奏する」と賞賛したのは有名な話ですね。
とくに晩年の演奏では、オーケストラとの若干のズレがあるものの、聴く人を感動の渦に巻き込みます。偉大なピアニストがたどり着いた到達点をお楽しみください。
まとめ
今回は20世紀最高のピアニストの一人、ウラディミール・ホロヴィッツを紹介しました。
ホロヴィッツは一時精神的病となるなど、浮き沈みの激しい生涯を送りましたが、逆境を乗り越え多くの名演を残しました。
そして彼が残した功績は、20世紀の演奏家に多大な影響をもたらしたことは間違いありません。同時代に活躍したリヒテルやルービンシュタインといったピアニストと聴き比べながら、演奏の違いを楽しんでみてはいかがでしょうか。
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