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ヴィルヘルム・バックハウスと共に20世紀ドイツを代表するピアニスト、ヴィルヘルム・ケンプ(以下ケンプ)。その卓越したテクニックと繊細な音色は、後世のピアニストに多大な影響を与えました。
また大の親日家としても知られ、初来日以来10度も来日し、日本のクラシック音楽ファンを喜ばせています。ドイツ人らしく、バッハやベートーヴェン、ブラームスなどで数多くの名盤を残したケンプとは、どのようなピアニストだったのでしょうか。今回はエピソードを交えつつ、ケンプの生涯を紹介します。
ヴィルヘルム・ケンプの生涯
ケンプの生涯について解説します。95歳という長寿だった彼は、80歳をすぎてもなお意欲的にコンサート活動に取り組みました。20世紀のピアニストを語る上で欠かすことのできないケンプはどのような生涯を送ったのでしょうか。
幼少期から青年期
ヴィルヘルム・ケンプは、1895年11月25日、ドイツのブランデンブルク州に生まれました。ブランデンブルクといえば、バッハの協奏曲で有名な街ですね。父が王室音楽監督やニコライ教会のオルガニストだったこともあり、ケンプは幼少の頃から、父からピアノ、オルガンの手ほどきを受けます。
類い稀な才能を発揮したケンプは、わずか9歳でベルリン音楽大学に入学を許可され、ピアノのほか作曲を学び、一時アルトゥール・ルービンシュタインにピアノを師事していたそうです。
ピアノの才能が優れていたのはもちろんですが、この頃のケンプは作曲にも才能を示し、1917年に作曲した「ピアノ組曲」でメンデルスゾーン賞を受賞しています。
また翌1918年には、ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第4番』の演奏でアルトゥール・ニキシュとも共演。人生の早くからピアニスト・作曲家として頭角を表しました。
この頃、フィンランドの作曲家シベリウスと知り合いになり、シベリウスの招きによりフィンランドを訪れたケンプは、スウェーデン王室から勲章を授与されています。
ドイツ楽壇の中心人物として
ピアニスト・作曲家として活動したケンプは、同時に教育者としても大きく貢献しています。1924年から1929年までマックス・フォン・バウアーの後任としてシュトゥットガルト音楽大学の楽長を務め、1931年にはポツダム・マルモーバレの夏期講習会の共同創設者となり、後進の育成に取り組んでいます。
さらに1932年にはベルリンを本拠地とするプロイセン芸術協会の正会員に抜擢され、名実共にドイツ音楽界の中心人物として不動の地位を獲得しました。
1930年代のケンプは上記の活動のほか、ベートーヴェンの全集録音に挑戦するなど、みのりの多い時期だったと言えるでしょう。
ケンプの活動は第2次世界大戦時も衰えることはありませんでしたが、ナチス・ドイツとの関係が疑われ、リサイタルが開催できない時期もあったそうです。
1930年代半ばにはドイツ文化使節団の1人として初来日を果たしたのをきっかけに、1936年から1979年まで計10回日本を訪れ、日本のクラシック音楽の発展にも寄与しています。
戦後と晩年
ピアニストとして大きな成功を収めたケンプですが、彼の演奏がより自由で開かれたものとなったのは、意外にも60代半ばに入ってからのことでした。
それまでのケンプの演奏は、技巧主義的で完璧を目指した演奏スタイルであり、隙がなく、緊張感が漂った演奏が特徴でした。
一方、1960年代以降の演奏スタイルは技術的追求よりも、より精神的で思索的な世界観が展開され、現在知られるケンプの演奏スタイルは、この時期に確立されたと言っても過言ではないでしょう。
80歳をすぎても第一線で活躍したケンプでしたが、次第に体調が衰え始め、1991年5月23日、イタリアにてパーキンソン病のため帰らぬ人となりました。
享年95歳という大往生でした。死の数年前から思うように体を動かせなかったケンプは、引退の際、「もう私は、病気のためピアノを弾けません」という言葉を残していたそうです。
ヴィルヘルム・ケンプ生誕100周年の1995年には、世界各国に残されたライブ録音が販売され、現在でもケンプの偉大な功績を楽しめます。
ヴィルヘルム・ケンプの性格を物語るエピソードは?
95歳の大往生を遂げたケンプ。彼の生涯はまさにピアノのために捧げた生涯でした。そこで以下では、ケンプにまつわるエピソードを簡単に3つ紹介します。
大ピアニストが日本贔屓だったのは、なんだか日本人として誇らしい気持ちになりますね。
大の親日家だった
ケンプが初来日を果たしたのは1936年のこと。今からおよそ100年前の時代です。
世界的ピアニストの来日は当時としては珍しく、さらに初来日依頼10度も来日したのはケンプのみだったそうです。来日時には、ベートーヴェンの演奏はもちろん、1954年には広島平和記念講堂でのオルガン除幕式にも加わり、被爆者への追悼コンサートも開かれました。
また、1970年のベートーヴェン生誕200周年記念でも日本を訪れ、ピアノソナタ全集も披露しています。
よほど日本が気に入ったのか、ケンプは自身が執筆した『自叙伝』の日本語版序文において、「もっともすばらしかったのは、相互に愛情が生まれたことでした」と書き記しています。
多数の全集録音を残す
ケンプは世界的ピアニストとして活動すると同時に、レコーディングも積極的に行った人物でした。とりわけ、バックハウス以来のベートーヴェン全集は名盤であり、モノラル・ステレオ双方の録音技術において全集を残しています。
また1960年代には、ピアニストとして初の「シューベルトのピアノソナタ全集」を録音し、大きな話題となりました。
「ケンプといえばベートーヴェン」というのが一般的で、彼がフィンランドに滞在した際には、作曲家シベリウスから直々にベートーヴェンのピアノソナタ29番の演奏を依頼され、シベリウスを喜ばせたというエピソードが残っています。
実は作曲も手がけている
現在では20世紀を代表するピアニストとして知られるケンプですが、実は1930年代まで作曲家として活動していたことをご存じでしょうか。
演奏家が作曲も手がけるのは、それほど珍しくはありませんが、ケンプは「本格的な」作曲家でもありました。
作曲ジャンルも、舞台音楽、声楽、管弦楽、室内楽、ピアノ曲などほぼすべてのジャンルに及んでおり、『交響曲第2番』はフルトヴェングラーの指揮で初演されています。
残念ながら現在では演奏される機会はほとんどありませんが、この記事を機会に「作曲家ケンプ」としても覚えておいてくださいね。
ヴィルヘルム・ケンプの演奏風景
上述した通り、ケンプはベートーヴェン全集やシューベルト全集など、数々の全集録音を残しています。こうした試みは、「ケンプが長命だった」ことも大きな理由かもしれませんが、「ドイツ人としての誇り」を後世に残したかったからかもしれません。
数ある名演の中から、今回はベートーヴェンの『ピアノソナタ31番』を紹介します。
本作はベートーヴェンの「後期3大ソナタ」に数えられる傑作であり、ある意味でピアノソナタの頂点とも言えるでしょう。
まとめ
ヴィルヘルム・ケンプの生涯を解説しました。ケンプが活躍し始めた時代は、録音技術が給食に高まった時期とかさなります。そのため、モノラルとステレオの双方において、ケンプはすぐ獲れた名盤を多く残しているのが大きな特徴と言えるでしょう。
「ドイツ人が奏でる本格的なドイツ音楽」を味わいたい方は、ケンプの演奏を聴いてみてはいかがでしょうか。
ケンプがルービンシュタインに習っていたという情報源はどこでしょうか?