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突然ですが、みなさんは「20世紀最高のピアニストは誰か?」と尋ねられたら、誰の名前を思い浮かべますか?。ウラジミール・ホロヴィッツ?、スビャトスラフ・リヒテル?あるいはマルタ・アルゲリッチの名前を挙げる方もいるかもしれません。
もちろんこれは聴く人の感性によりますし、演奏家と作曲家の相性なども関係しているので、一概に決めるのは難しいと思います。
今回紹介するアルトゥール・ルービンシュタインも、20世紀を代表する最高のピアニスト候補に挙がることは間違い無いでしょう。ルービンシュタインは、95年という長きにわたる人生のすべてを音楽に捧げました。
アルトゥール・ルービンシュタインの生涯について
20世紀を代表するピアニストは、どのような生涯を歩んだのでしょうか。神童としてデビューした彼は、やがて偉大なピアニストへの道を歩み始めます。
偉大な音楽家の兆し
アルトゥール・ルービンシュタインは1887年、ポーランド連邦共和国のウッチという街に、8人兄弟の末っ子としてユダヤ人の家系に生まれました。父が街の織物工場を営んでいたため、裕福な家庭に育ったと言います。
実は「アルトゥール」とは後から変更された名前らしく、出生名は「レオ」と名付けられたそうです。変更の理由は、近所の「アルトゥール」という少年がヴァイオリンが上手く、「この子も偉大な音楽家になるかもしれない」ということで変更されました。
そして予言は的中し、わずか2歳で絶対音感を身につけたルービンシュタインは、4歳でピノの神童と呼ばれます。父がヴァイオリンを演奏していたため、プレゼントにヴァイオリンを贈ってみたものの、「ハーモニーやポリフォニーが合わない」とルービンシュタインは拒否したそうです。1894年、わずか7歳でモーツァルトやシューベルトの作品でデビューしたルービンシュタインは、10歳の時にベルリンへわたり音楽の勉強を深めます。
その後、13歳でベルリンフィルハーモニー管弦楽団と共演したのち、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムの推薦を受け、カール・ハインリヒ・バルト(フランツ・リストの弟子)にピアノを師事しました。
演奏家として
1904年、ピアニストとしてのキャリアをスタートさせたルービンシュタインは、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルやポール・デュカス(『魔法使いの弟子』が有名)や、ヴァイオリニストのジャック・ティボーと出会い、交流を深めます。
また、辛口評論家として知られるカミーユ=サン・サーンスの前で、本人の『ピアノ協奏曲第2番』を演奏するなど、着実にピアニストとしてのキャリアを積み重ねました。
1910年には、アントン・ルービンシュタイン国際ピアノコンクールで優勝するものの、ユダヤ人だったことが差別の対象になることもあったそうです。
しかしそのような偏見にもめげず、ルービンシュタインはロンドンでデビューし、同地でイーゴリ・ストラヴィンスキーやパブロ・カザルス、ピエール・モントゥーらと交流を深めます。
また、第1次世界開戦後もロンドンに滞在し、スペインや南米で最初の演奏ツアー旅行を行うなど、精力的に演奏活動を行いました。このとき、エンリケ・グラナドスや、イサーク・アルベニス、マヌエル・ド・ファリャなどの音楽に触れ、ショパンの作品と同様、生涯のライフワークとして演奏プログラムに採用することとなります。
また、数回に渡りドイツで演奏する機会があったものの、戦争中のドイツの行為に嫌悪感を抱き、1914年を最後に二度とドイツで演奏することはありませんでした。
平和への祈り、晩年
1932年、エミル・ムイナルスキの娘アニエラと結婚すると、4人の子供を授かりアメリカへと移住します。第2次世界大戦中にアメリカ国籍を取得したルービンシュタインは、その後演奏家としてのキャリアを積み重ね、世界的ピアニストとして揺るぎない地位を確立したのでした。
1960年には、ショパン国際ピアノコンクール(通称「ショパンコンクール」)の審査委員長を務め、若きマウリツィオ・ポリーニに賞賛を送っています。その後1976年、視力低下により現役引退を発表すると、ロンドンのウィグモア・ホールでの演奏を最後に演奏活動に幕を下ろします。
そして引退からおよそ6年後の1982年12月20日、スイス・ジュネーブの自宅にて、ルービンシュタインは眠るようにこの世を去りました。享年95歳の大往生でした。遺体は彼の遺言により火葬され、現在は「ルービンシュタインの森」と呼ばれる専用地区に埋葬されています。
偉大なピアニストの墓跡には次のような言葉が刻まれています。
「人生を愛せば、人生もあなたを愛して返してくれるということがわかった」
「人はいつも幸せになるために条件をつけている、しかし私は条件なしの人生を愛している」
アルトゥール・ルービンシュタイン
アルトゥール・ルービンシュタインの性格を物語るエピソード
ルービンシュタインのエピソードを紹介します。挫折を経験した天才ピアニストは、苦難を乗り越え、やがて偉大なピアニストへと成長します。
天才の挫折
わずか4歳でヨーゼフ・ヨアヒムよりピアノの才能を認められたルービンシュタイン。彼の才能は留まることを知らず、気鋭の若きピアニストへとして瞬く間に世界中から注目を集めます。しかしそんなルービンシュタインも大きな挫折を味わったようです。
それは20世紀初頭、アメリカデビュー後のこと。オーストリア、イタリアなどを演奏旅行でまわり、演奏家として順調にキャリアを歩んでいたかのように思われました。
しかし実際はアメリカでの評判はあまり良いものではなく、ときには債務者に追い回される日々を送ったようで、それを苦に首吊り自殺を図ったこともあったそうです。
もちろんこれは失敗に終わりましたが、このことがルービンシュタインのピアニスト人生に大きな変化をもたらしました。
最先端の音楽をいち早く支持
ルービンシュタインといえばロマン派の音楽やショパンの演奏で有名ですが、スペインなどの南米の作曲家や、20世紀初頭のフランスの作曲家の作品をいち早く支持したことでも知られています。
また同じポーランド出身の作曲家カロル・シマノフスキーとも交流を重ね、音楽家グループ「若きポーランド」のメンバーとして、ポーランド音楽の普及に務めました。
8ヶ国語を話す耳の良さ
ルービンシュタインはその耳の良さにより、8ヶ国語を流暢に話したと言われています。
同時に抜群の記憶力の持ち主でもあり、多くのレパートリーを暗記していたそうです。これについてルービンシュタイン本人は「写真のように」物事を記憶するそうで、コーヒを飲みながらでも楽譜を視覚化できたと伝えられています。
慈善活動に積極的だった
苦悩を突き抜けて、偉大な演奏家となったルービンシュタイン。彼が力を入れたのは、演奏活動だけではありません。生涯を通じて慈善活動に積極的に取り組み、チャリティーコンサートを開いては、多くの団体に寄付を募っています。
その支援先は音楽家緊急基金や全米精神衛生協会、ポーランド支援ほか多岐にわたり、演奏活動を通して、困窮する人々に常に手を差し伸べました。
ルービンシュタインのショパン
ロマン派の作品群はもちろんのこと、ドビュッシーやラヴェルといった印象派の作品を積極的にコンサート・レパートリーに取り入れたルービンシュタイン。数々の名演で聴衆を湧かせた彼ですが、やはり何といってもおすすめなのは、同郷ショパンの演奏です。
ルービンシュタインが演奏するショパンは、華やかでありながら慈愛に満ちあふれ、聴く人の心を望郷と哀愁の世界へと導きます。
今回はルービンシュタインの演奏中から、晩年の名演ショパンの『ピアノ協奏曲第2番』を紹介します。音の粒が煌めく光のようです。指揮は若かりし頃のアンドレ・プレヴィンです。
まとめ
アルトゥール・ルービンシュタインについて紹介しました。彼の人生は、まさに音楽によって生み出され、音楽のために捧げた人生といえのではないでしょうか。
95年に及ぶ長い人生の中で、栄光と挫折を経験したルービンシュタインの演奏は、聴く人の心をがっしりと捉えて離しません。
ショパン弾きのピアニストは多数いますが、これからショパンを聴いようと思われた方は、ぜひルービンシュタインの演奏から聴いてみてはいかがでしょうか。
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