ユージン・オーマンディってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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今回は20世紀ハンガリーを代表する指揮者ユージン・オーマンディについて紹介します。レオポルド・ストコフスキーの後任指揮者として、フィラデルフィア管弦楽団を引き継いだオーマンディ。表情豊かで磨き抜かれた弦楽の音色は「フィラデルフィア・サウンド」、「オーマンディ・トーン」としてクラシック音楽界に一時代を築きました。

また同時代の作曲家たちによる初演を数多く手がけ、バロック音楽から現代音楽まで幅広いレパートリーに定評があります。では、そんな大指揮者オーマンディはどのような人生を歩んだのでしょうか。今回はユニークなエピソードを交えつつ彼の生涯を解説します。

ユージン・オーマンディの生涯について

レオポルド・ストコフスキーの意思を受け継ぎ、フィラデルフィア管弦楽団をさらなる高みへと成長させたオーマンディは、どのような生涯を送ったのでしょうか。指揮者として成功した彼の人生には、驚がくの事件が隠されています。

ヴァイオリニストとしてキャリアを開始する

ユージン・オーマンディは1899年、オーストリア・ハンガリー(当時)のブダペストに生まれました。父は歯科医をしており、アマチュアながらヴァイオリンをたしなむ人物でした。3歳の頃、父からヴァイオリンの手ほどきを受けたオーマンディは、驚異的な才能を発揮し、わずか5歳で王立国立ハンガリー音楽院への入学を許可されます。

最年少で入学したオーマンディですが、その才能はますます開花し、15歳で室内楽とヴァイオリンの最終試験に合格します。その後音楽院を卒業したオーマンディは、ハンガリーとドイツで最初のツアーを行い、10代の若さでベルリン・ブリュットナー・オーケストラのコンサートマスターを任されました。

しかし順調に思われたオーマンディの人生に、大きな転機が訪れます。それは1921年、アメリカでの演奏旅行でのこと。ツアー関係者にダマされたオーマンディは、なんのあてもないアメリカの地に一人で取り残されてしまいます。途方にくれたオーマンディでしたが、その後ニューヨーク・キャピタル劇場オーケストラのヴァイオリン奏者に採用され、苦難を乗り切ります。

また、ニューヨークで同じハンガリー出身のエルノ・ラペーと出会ったのも不幸中の幸いでした。彼と出会ったことがきっかけとなり、オーマンディーはヴァイオリニストとして映画会社と契約を結び、のちにキャピタル劇場のオーケストラ指揮者に就任しました。

フィラデルフィア管弦楽団指揮者として

1924年から同劇場の常任指揮者となったオーマンディーは、その後アメリカ国籍を取得。アメリカ人指揮者として、徐々にそのキャリアを高めていきます。そして1931年、大指揮者トスカニーニの代役としてフィラデルフィア管弦楽団を指揮すると、優れた演奏が評判となり、その後ミネソタ管弦楽団の常任指揮者に就任。1936年まで在籍し、1938年からフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に選出されます。

レオポルド・ストコフスキーから同管弦楽団を引き継いだオーマンディーは、ヨーロッパやオーストラリア、南米、東アジアでも客演し、世界的な名声を得るに至ります。とくにストコフスキーが確立した「フィラデルフィア・サウンド」をベースに、さらなる洗練と精度を加えた旋律は「オーマンディー・トーン」と称され好評を博しました。そしてオーマンディーとフィラデルフィア管弦楽団の関係は1980年までの42年間に及び、同管弦楽団の黄金時代を築き上げます。

42年のキャリアに幕

1980年、80歳を機にフィラデルフィア管弦楽団の首席指揮者を退いたオーマンディですが、その後も桂冠指揮者※1としてしばしば出演し、聴衆から暖かい拍手で迎えられました。

そして1984年1月10日、カーネギーホールでの演奏会を最後に、指揮者としての活動を終えます。首席指揮者とその後の桂冠指揮者としての在任期間は、指揮者とアメリカの主要オーケストラとの間で途切れることなく続いた最長期間となりました。

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長きに渡りアメリカのクラシック音楽界をリードしたオーマンディですが、1985年3月、ペンシルバニア州フィラデルフィアの自宅にて、肺炎のために85歳でこの世を去りました。

後任指揮者にはリッカルド・ムーティが選出されたほか、ヴォルフガング・サヴァリッシュやシャルル・デュトワなど、現代の名指揮者たちが今もその伝統を守り続けています。

※1、桂冠(けいかん)指揮者・・・音楽監督に贈られる称号です。名誉指揮者と同じ意味で使われます。

ユーイン・オーマンディのエピソード

オーマンディのエピソードについて3つ紹介します。同時代の作曲家たちに慕われたオーマンディは、数々の作品において世界初演を行いました。

代役からステップアップ

レナード・バーンスタインがブルーノ・ワルターの代役として鮮烈なデビューを飾ったように、オーマンディの指揮者デビューも代役から始まりました。

一度目は1924年。指揮者が急病で倒れ、急きょ指名されたことで指揮者デビュー。もう一つは1931年。病気のトスカニーニの代役としてフィラデルフィア管弦楽団を指揮し、これが好評を得てミネソタ管弦楽団の常任指揮者へ。

以降オーマンディは着実にキャリアを重ね、1936年に、レオポルド・ストコフスキーとともにフィラデルフィア管弦楽団の共同指揮者に就任します。優れた指揮者がいるなかで、これほどの幸運に恵まれた人物も珍しいかもしれません。

初演の指揮を多く手がける

安定した指揮ぶりに定評のあったオーマンディ。それを信頼してか、彼の元には多くの作曲家から初演の依頼が舞い込みました。共同指揮者だったストコフスキーには及ばないものの、ブリテンやヒンデミット、ミヨーやヴェーベルンなどのほか、アメリカの作曲家たちの初演も積極的に取り上げました。

なかでもサミュエル・バーバーの『ヴァイオリン協奏曲』やベーラ・バルトークの『ピアノ協奏曲第3番』の世界初演は、作曲家の地位向上に大きな役割を果たしています。そしてこれらの功績が評価され、オーマンディはのちに5つのグラミー賞を受賞しました。

帝王カラヤンのライバル?

独特な世界観を演出したオーマンディ。繊細で細やかな彼の演奏スタイルは、派手さこそ少ないものの、1950年代から70年代にかけて、帝王カラヤンが指揮するベルリンフィルに匹敵するライバルと言われていました。それはもしかしたら、オーマンディの多才さとハイレベルな楽団作りによるものだったのかもしれません。
カラヤンのライバルというと、不世出の指揮者セルジュ・チェリビダッケの名前が上がりますが、オーマンディもカラヤンと並ぶ指揮者として称賛されていたことがわかるエピソードです。

ユージン・オーマンディの指揮風景

ユージン・オーマンディの特徴を一言で表現すると、まさに「職人かたぎ」。バロック音楽から12音技法まで、どんなジャンルの作品も淡々とこなすイメージがあります。そして彼が奏でる「オーマンディ・トーン」は、同時代の指揮者とは異なる独特な魅力を発揮しています。フルトヴェングラーやカラヤンなどと比べると、華やかさや大胆においてやや劣るものの、作品を丁寧に解釈する姿勢は後代の指揮者に大きな影響を与えました。

今回はオーマンディの名演の中から、ホルスト作曲、組曲『惑星』を紹介します。
冒頭の大胆さや迫力は必聴の価値ありです。

まとめ

指揮者ユージン・オーマンディの生涯やエピソードについて解説しました。彼は20世紀前半の指揮者のなかで、もっとも「アメリカン・ドリーム」をつかんだ指揮者と言えるでしょう。そしてその評価は衰えず、現在も多くのクラシック音楽愛好家に親しまれています。

これまでオーマンディのことを知らなかった方も、この記事をきっかけに、ぜひ彼が奏でる「オーマンディ・トーン」に触れてみてはいかがでしょうか。きっと指揮者の個性が伝わる演奏だと思いますよ。

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