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20世紀後半を代表する指揮者クラウディオ・アバド。名門音楽一家に生まれたアバドは、生まれながらの音楽的才能に恵まれ、大指揮者カラヤンの後継者としてベルリン・フィルハーモニ管弦楽団に新風を巻き起こしました。
彼の活躍は21世紀に入っても続き、同時代の優れた演奏家たちとの共演や、若手音楽家たちの育成に力を注いでいます。
そんな偉大なる指揮者クラウディオ・アバドはどのような生涯を送ったのでしょうか。
今回はエピソードを交えつつ、華麗なるアバドの人生を解説します。
クラウディオ・アバドの生涯ほ?
代々音楽家の家系に生まれたアバドは、まさに「クラシック音楽界のサラブレッド」とも言える生涯を送りました。世界的指揮者となった彼の人生とはどのようなものなのか、簡単に振り返ってみましょう。
名門音楽一家に生まれる
クラウディオ・アバドは1933年、イタリア・ミラノに生まれました。アバド一族は代々続く音楽家一族で、富と名声に溢れた名門一家だったそうです。
アバドの曽祖父がギャンブルにより財産を使い果たしてしまったものの、祖父が大学教授を務めたことで一族は復興。その遺産はアバドへと引き継がれることになりました。
そして父ミケランジェロがプロのヴァイオリニスト、母マリアはピアニストであったため、幼い頃からアバドは優れた音楽環境の中で育ちます。
両親の才能を引き継いだアバドは、青年期からミラノ・スカラ座に通い、アルトゥーロ・トスカニーニやウィルヘルム・フルトヴェングラーといった大指揮者の演奏を目の当たりにし、次第に指揮者の道を志すようになりました。
また、15歳の頃にはレナード・バーンスタインと初めて出会い、バーンスタインから大きな影響を受けたと言います。
その後、ミラノ音楽院に進学したアバド。音楽院でピアノ、作曲、指揮を学び、ブルーノ・ワルターやヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮する合唱団に参加し研鑽を重ねました。
指揮者デビュー
ミラノ音楽院を修了後の1958年、トリエステで指揮者デビューを果たしたアバドは、1960年に地元スカラ座でも指揮デビュー。その後ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団では、バーンスタインのアシスタント指揮者に抜擢されます。アシスタント期間はわずか5ヶ月と短期間ではあったものの、この経験が若いアバドにとって貴重な経験となったことは言うまでもありません。
バーンスタインとの縁から、ニューヨーク・フィルハーモニーでもデビューを果たしたアバド。彼の名は、気鋭の若手指揮者として早くから注目を集め始めます。
世界各国で指揮デビューとなったアバドは着実にキャリアを積み重ね、スカラ座首席指揮者、メトロポリタン歌劇場、ロンドン交響楽団といった一流オーケストラの常連指揮者として人気を高め、次第に世界的指揮者として認められるようになります。
カラヤンの後継者に抜擢
そんなアバドの指揮者人生の中で最大の転機となったのは、1989年のこと。ヘルベルト・フォン・カラヤンの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任したことが挙げられます。
カラヤンからベルリン・フィルを引き継いだアバドは、持ち前の革新的精神を発揮。カラヤンの定番プログラムには登場しなかった、現代音楽を積極的に取り上げ、「新しい」ベルリン・フィルのスタイルを築きあげたのでした。
なお、カラヤン後任人事をめぐっては、当時の予想ではロリン・マゼールが有力だったそうです。マゼール本人も「次は自分である」と考えていたそうで、落選の知らせを聞いたマゼールは失意の底に沈んだと言われています。
若手音楽家の育成、そして晩年
その後アバドは、同管弦楽団に2002年まで在籍。その間、ザルツブルク・イースター音楽祭芸術監督やグスタフ・マーラー・ユース・オーケストラを設立するなど、クラシック音楽の発展と普及に力を注ぎました。
しかし高齢となったアバドに突然の病魔が襲います。ベルリン・フィル退団の2年前に胃がんが見つかり、しばらくの休養を余儀なくされることに。3ヶ月の休養後、指揮者として復帰したアバドですが、2014年1月20日、イタリア・ボローニャにて胃がんのためこの世を去りました。享年80歳でした。
クラウディオ・アバドのエピソードは?
指揮者というと、どことなく「人間離れした」エピソードが印象的ですが、アバドは理知的で聡明な人物だったようです。そして何よりも自由と革新を愛した人物でもありました。
そんなアバドの性格を物語るエピソードをここでは3つ簡単に紹介します。
反体制に追われる
名門音楽一家アバド家に生まれたクラウディオ・アバド。そんな彼には保守的なイメージがありますが、実際は真逆のパーソナリティだったようです。
彼の性格を表すエピソードに、「ゲシュタポから逃げ回った」という有名な話があります。
アバドが幼少期を過ごしたミラノはナチスの占領下にあり、抑圧的な毎日を過ごしていました。そんなある日のこと。11歳だったアバドは、街の壁に「バルトーク万歳」と書き記すと、これがゲシュタポに見つかり、犯人探しの標的にされてしまったそうです。
最終的に難を逃れたものの、アバドの反体制への姿勢や伝統よりも革新という考えは、幼少期に培われたのかもしれません。
伝統よりも革新!
アバドはイタリア人でありながら、生涯プッチーニの作品を指揮しなかったことでも有名です。プッチーニと言えばトスカニーニの先生のような存在であり、イタリアを代表するオペラ作曲家でもある人物です。
そんなプッチーニの作品を演奏しない理由を聞かれたアバドは、次のように答えました、
「プッチーニが嫌いなわけではない。ただ、私は革新に惹かれる」
このことからも、伝統よりも革新を貫いたアバドの精神がうかがえますね。
その一方で、アバドがグスタフ・マーラーの作品を愛したのは、作品が持つ革新性に惹かれたからかもしれません。
次世代の音楽家のために
世界的指揮者として申し分のないキャリアを積み重ねたアバド。
そんな彼が指揮とともに熱心に取り組んだのが、若手音楽家の育成でした。
アバドは自らが主体となって、ヨーロッパ共同体のユース・オーケストラ(1978)やグスタフ・マーラー・ユース・オーケストラ(1986)を設立し、自身の経験を余すことなく次世代の若者に伝えました。
オーケストラの他にも、ヨーロッパ室内管弦楽団、ルツェルン祝祭管弦楽団の新設にも関わり、21世紀のクラシック音楽界の新しい幕開けに力を注いでいます、
クラウディオ・アバドの演奏動画
クーセヴィツッキー国際指揮者コンクールでのグランプリ獲得をきっかけに、若手指揮者として注目を集めたアバド。この優勝以降、ミラノ、ロンドン、ウィーン、ベルリンなど世界一流の楽団で首席指揮者として活躍し、世界中の人々に優れた演奏を提供し続けました。
そんな彼が指揮した中でも評価が高いのが、モーツァルトやブラームス、マーラーなどの演奏です。とくにマーラーの作品をこよなく愛していたアバドは、後年、グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団を設立し、若手音楽家育成のために尽力しました。
そこで今回は、アバドが心酔したマーラーの演奏をご覧ください。
円熟期を迎えたアバドの名演です。
まとめ
今回は「音楽界のサラブレッド」クラウディオ・アバドを紹介しました。
アバドは2014年に惜しまれつつこの世を去りましたが、彼はトスカニーニやフルトヴェングラー、そしてカラヤンといった大指揮者を目の当たりにした最後の世代とも言えます。
近年ではアバドの集大成とも言えるアルバムが次々とリリースされていますので、この記事をきっかけに、彼の演奏に触れてみてはいかがでしょうか。
理知的でありながらも、音楽愛に溢れた演奏に心癒されること間違いなしだと思いますよ!
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